こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。
ここにも白村江の戦いを通じて太宰府につながる歴史がありました。
福岡県八女市上陽町北川内
北川内公園横を流れる星野川の畔から切り立った虎尾山(別名:善神王山)の頂ちかくには、善神王宮社があります。
星野川にかかる寄口橋
祭神:善神王こと、武内宿禰命(たけうちのすくねみこと)
大伴部博麻呂とは
「大伴部博麻は飛鳥時代の兵士。筑後国上陽出身。斉明天皇7年(661年)新羅の攻撃によって滅亡した百済を再興すべく派遣された(白村江の戦い)軍の一兵卒として渡航するが、唐軍によって捕らえられ長安へ送られました。長安には遣唐使でそのころ捕虜になっていた土師富杼(はじのほど)、氷老(ひのおゆ)、筑紫薩夜麻(つくしのさちやま)、弓削元実児(ゆげのもとさねこ)がいました」。
663年白村江の戦い
唐と新羅の連合軍VS百済と倭国の連合軍の戦い
「天智天皇3年(667年)唐が日本侵略を企てているという知らせを聞いた博麻は、富杼らに相談し、自らの身を奴隷として売って、前に述べた仲間四人の帰国資金としました。その後、天智天皇10年(671年)に薩夜麻を含む4人が対馬に到着し、唐の計画を大宰府に伝えました。博麻は異国の地に留まることを余儀なくされ、唐軍に捕らえられてから実に30年近くが経過しました。持統天皇4年(690年)に顔見知りの新羅使に連れられて日本に帰国しました。持統天皇は天武天皇13年(684年)に土師を迎えた際の例に準じて新羅使らを饗応することを河内王(筑紫大宰帥)らに命じました」 。
大伴部博麻呂の碑
福岡県八女市室園(北川内公園内)
「持統天皇はその愛国心を讃えて博麻を従七位下に任じ、絹を四匹、綿を十屯、布を三十端、稲を千束、水田を四町与えした。また、子孫三代に渡って水田の相続を許可する事と税の免除を約束し、勅語を送りました(「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠」)。この勅語は「愛国」という単語の語源となったものであり、天皇から一般個人に向けられた最初で最後の勅語であります」。
右の柱には、尊朝愛国(そんちょうあいこく)
左の柱には、売身輪忠(ばいしんゆちゅう)
勅語「朕嘉厥尊朝愛国 売己顕忠」
第二次世界大戦時の日本で博麻は愛国心の象徴的存在として崇められ各地で喧伝されました。
また戦前は教科書にも載っていました。
説明文
説明文のタイトルには博麻呂、文中には博麻と書いてあり調べてみました。
ネットより「麻呂まろ は麿とも書き 上代、男子の呼称として単独で用いられ、あるいは接尾語として人名のあとにつけることも多かった。 一人称代名詞としての用法は、主として平安時代以後に現れ、年齢、男女、貴賤(きせん)にかかわらず広く用いられた」とありました。
大伴部博麻の場合名前が博麻だからタイトルには呂をつけ博麻呂にしたのでしょうか。
(補足説明)
一方大伴部博麻は大和政権時代の部民制でいう、部(べ) として編成され、豪族「大伴氏」に隷属して奉仕、貢納していました。・・・大伴部博麻は大伴氏の使用人だったと思われます。
663年白村江の戦いのあと唐・新羅の侵攻に備えそれまで今の博多南にあった政庁の前身の那津の官家を大宰府に移し政庁、大野城、水城を佐賀の基山に基肄城を対馬に金田城、菊池に鞠智城(きくちじょう)、中国、四国から近江では海の近くの難波宮を大津宮へ移し急遽防衛施設を築きました。
唐と新羅の侵攻に備えた防衛施設
①那津官家(なのつのみやけ)
②大宰府政庁
③水城
④大野城
⑤佐賀の基肄城(きいじょう)
⑥熊本菊池の鞠智城(くきちじょう)
⑦対馬の金田城
▶fukuda0917@yahoo.ne.jp
塾長より
いつも記事をお読みいただきありがとうございます。
もしよろしければ記事の一番下にある「コメントを残す」より
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これからも太宰府の魅力をお伝えしていきますので
応援よろしくお願いします。
福田塾長さん
先日は、ご一緒させて頂き、ありがとうございました🙏 実は先週、ある歴史サイトで、「奴隷となって国を救った男」という資料を読み、「奴隷となって・・」とはどういうことなのだろう❓と頭をかしげてしまいました。しかもその史跡が、八女市にあることを知り、塾長さん他数人で現地を訪ねたのでした。
小雨混じりの天候でしたが、小高い丘の上、いくつかの社や顕彰碑などの一角に目的の石碑を発見した歓びは、格別でした。
しかし、それにも増して驚いたのは、塾長さんが、3日後には、その歴史的経緯や関連のある文献などを詳しく解りやすくまとめて頂いたことでした。太宰府を中心とした魅力的の発見はまだまだ拡がるのが楽しみです🥰
storchさんお誉めに預かりありがとうございます。
ブログにアップする場合のウエイトは先ず情報、2番目に行動、そしてまとめだと思います。情報がいかに大切かと思います。
今回の場合情報の提供をいただいたstorchさんそして同行いただき感謝しています。ありがとうございました。
白村江の戦いに負けて、朝廷は大野城、水城など築城したのは唐から攻めくる防波堤するためと教えていただいていました。しかし、どうして唐から攻めてくると考えたのだろうと疑問でした。はじめて名前を知った大伴部博麻の自分を投げ捨て、国を救う活躍に頭が下がります。筑紫国から沢山の動員された兵士の記録が残っていることは素晴らしいですね。塾長の調査力、行動力に感謝しています。
五男さんコメントありがとうございます。
storchさんの返事に書きましたけど大伴部博麻わたしも初めて知りました。
名前も大伴部とあり貴族かなと思いながら現地を訪れたことでした。
お疲れ様です。白村江の戦いの中に色々な歴史とドラマがあるんですね。大伴部博麻、初めて聞く名前で知りませんでした。昔にも自分を犠牲にして人、國の為に尽くした人が居たんですね。どこかの議員達は、見習って欲しいですね。明治の田中正造みたいな人も居ないですね。上陽町といえば立派な珍宝岩があったところじゃないですか?いつも有り難うございます。
荒井チュウさんコメントありがとうございます。
田中正造のことも珍宝岩のことも知りませんでした。
戦前は教科書にも載っていたとのこと今ならどういう風に教えるのかむずかしいでしょうね。
先ず政治家に読ませたいですね。
この愛国者のこと初めて知りました、無事帰国出来たようで何よりです、国家のため己を身売りとは、他に例を知りません。ブログを読んだ時かなりのショックを覚えました、いまの世の中、日に日に劣化してるようです、こういう愛国者の話がもっと広まるといいなと思います。
追記、今般の能登大地震、ボランティアの方が後片付けに大勢応援してること、匿名で何人もが数十万円も寄付してること、自衛隊や警察官が献身的に働いてることなどには心から敬意を表します、一方泥棒やリフォーム詐欺が発生してることには嘆かわしい思いです。
若宮征之助さんコメントありがとうございます。身を売った代償が30年の奴隷また殺されないという保証もない中での生活だったわけですから天皇も感動して最大級の恩賜と勅語を与えたのですね。今度の能登半島の大地震においても一部の不届き者がいるようですけど、まだまだ日本も捨てたものではなくもっともっと愛国者の話しが広がっていって欲しいですね。
塾長さま
たくさんの資料を読み、わかりやすくきちんとまとめられて…素晴らしい❗やはり人気あるブログというのは違いますね😃写真の石橋の清流で『珍宝岩』探したい(笑)
『部』というのは身分高い人と思っていたし、遣唐使で捕虜になってた…とかも
本当にいろいろ調べないと何もわかりません。塾長さまがまとめて下さってるので楽々わかり、感謝です😌💓
いつもありがとうございます😌🌸💕
『珍宝岩』と書かれていたから
鉱物が入ったキラキラした石のことかと思いました。身を売って愛国、あの山深い清流…からは、ちょっと想像できなかった。
あらまっ❗って感じ(笑)💦
ゆりさんコメントありがとうございます。今回のブログは構想がなかなかまとまらず悪戦苦闘の末なんとか書き上げました。ゆりさんにお誉めいただき苦労の甲斐がありました。珍宝岩、わたしも知らなくて調べてみたらあらまって感じでしたね。
わからないことは何でも塾長さまに丸投げのわたしです(笑)😌💓
大伴部博麻呂と書いてあったり博麻だったり…
『呂』をつけるとさらに格が上がるのかな……❓
柿本人麻呂(万葉集の)
呂がついてる名前はこの人しか知らない😀💦
ゆりさんご質問ありがとうございます。「大伴部博麻呂の碑」は呂がついているし、その説明文の中では博麻、ネットでも博麻と呂がついてなくいろいろ調べてみました。
ネットより「麻呂まろ 麿とも書き 上代、男子の呼称として単独で用いられ、あるいは接尾語として人名のあとにつけることも多かった。 一人称代名詞としての用法は、主として平安時代以後に現れ、年齢、男女、貴賤(きせん)にかかわらず広く用いられた」とありました。
大伴部博麻の場合名前が博麻だから呂だけをつけ博麻呂にしたのでしょうね。
また麻呂が付く人名には坂上田村麻呂、和気清麻呂、阿倍仲麻呂もいたようですね。
塾長さま
ありがとうございます😀🎵
ほんとだ。
坂上田村麻呂、阿倍仲麻呂…
何だか懐かしい(笑)
麿っていえば
公家❓眉を剃って目の上
黒く点々つけた顔が頭に浮かぶわ。昔見たテレビ。
志村けんかな❓(笑)💦
すみません、品を下げて(笑)😀
ゆりさん、麿は志村けんのイメージが強いからどうしてもあの顔が浮かびますね。