こんにちは!

太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

佐賀基山に基肄城を訪ねてきました。

佐賀基山に本拠地があった基肄城

基山・・地名の呼び名は「きやま」、山の名は「きざん」

 

先ず基肄城の水門跡へ

水門跡

「基肄城の水門跡は水を通すために石塁下部を貫き、長さ10m、高さ1.4m、幅1mほどの大きさのトンネルが造られました」

 

 

 

今日は史跡めぐりコースから登ります。

 

足取り軽やか

 

米倉跡

「礎石の周辺から炭化した米が発見されたことからこの施設は米などの食糧を備蓄していた倉庫だと考えられています」

 

鐘撞堂(かねつきどう)

 

鐘楼址

つつみ跡

「つつみ跡は東峰の最頂部にある遺構で直径18mのくぼ地が造られています。この形状から当時の貯水池跡と考えられています」

 

土塁跡

峰と峰の間に築いた土塁

 

 

東北門跡

鬼門にあたります。

丸尾礎石跡

礎石跡

いものがんぎ

 

「いもがんぎ」の写真は右側

「西側の土塁、基山山頂近くには『いものがんぎ』よばれる凹凸地があります。これは戦国時代に造られた防衛施設で尾根からルートを遮断するものです。

『いものがんんぎ』とはその形状が芋畑の畝に似ていることからつけられました」

 

基肄椽城(きいじょう)跡

特別史跡

説明板

「基肄城は背振山系の東端にある基山(405m)と峰続きの東峰(327m)の稜線を総延長約4.3kmの土塁で結んで造られた日本最古の朝鮮式山城。

663年「白村江(はくすきのえ)の戦い」で敗北した日本は急遽、唐・新羅軍の北部九州侵攻の対策を行いました。最初に大宰府を守るために壱岐・対馬・筑紫などに警備の兵である防人を配備し、大宰府の前面に水城を築き、さらに665年には亡命して来た百済人指導のもと、大野城(福岡県)とともに有明海からの侵攻に備えて基肄城は築城されました。現在でも土塁・城門・水門・建物の礎石などの遺構があり、その規模はきわめて大きく城郭史上における価値が高いとして1954年(昭和29年)国の特別史跡に指定されました」

 

基山山頂へ

 

基山山頂(405m)

 

天智天皇欽仰之碑

白村江の戦い当時の天皇(本陣『宮殿』を朝倉に橘広庭宮を構える)

 

東には宝満山、大根地山、砥上岳方面

 

西には長崎雲仙方面

 

北には土塁

 

南は久留米方面

 

帰りは筑紫野温泉アマンディでお風呂

住所:福岡県筑紫野市原田832-1 TEL 092-926-2655

 

大宰府の防衛施設

 

663年の白村江の戦いの後、大宰府の防衛施設として太宰府周辺に664年に水城665年に大野城と基肄城(きいじょう)を築き対朝鮮半島防衛の最前線対馬に667年金田城を、兵站基地として熊本菊池に鞠智城(きくちじょう)を、瀬戸内海沿いの西日本各地(山口に長門城、四国に屋嶋城、岡山に鬼ノ城など)に朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備しました。

さらに、667年に天智天皇は都を難波から内陸の近江大津宮へ移し、ここに防衛体制は完成を見ました。 

 

大宰府政庁跡はこちら↓

 

水城跡はこちら↓

 

大野城跡はこちら↓

 

対馬の金田城はこちら↓

 

菊池の鞠智城(きくちじょう)はこちら↓

 

これで九州における大宰府の防衛施設は一通り廻り終えました。

これからは機会を作り山口の長門城から四国の屋嶋城、岡山の鬼ノ城、難波宮、近江大津宮を見に行こうと思っています。

 




塾長より

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