こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。
「太宰府魅力発見塾」のホームページの最初の画像はこの「大宰府政庁跡地」です。
私が一番好きな場所です。
(注)古代の役所や遺跡は「大宰府」、地名や天満宮は「太宰府」と使い分けをしています。
大宰府政庁(都府楼)とは?
都府楼とは
中国式の名称で都督府(官庁)の楼閣(高級な建物)のことです。
7世紀後半663年の白村江の戦い(日本・百済VS新羅・唐)の後、大和朝廷は博多湾から近い536年設立の那津官家(なのつのみやけ)を新羅・唐の連合軍から守るために水城に水城堤を造りここ太宰府に移し、奈良・平安時代を通して、九州を治め、我が国の西の守り(防衛)、外国との交渉の窓口となる役所(大宰府)としました。その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものでした。
大宰府政庁跡のパワースポット
史跡大宰府跡の碑
後ろの山は四王寺山
岩屋城は山の右端にあります。
全景
何も建物がないところがいいです。
大宰府政庁跡の広い敷地の中央の奥にある3つの碑
正殿が建っていたところ。
右から
大宰府碑:福岡藩西学問甘棠館の館長亀井南瞑撰文。南冥没後100年の1914年建立。
都督府古址:1871年現大野城市の大庄屋高原善七郎美徳建立。
大宰府址碑:1880年大宰府政庁跡が煙滅することを恐れた御笠郡の人々が建立。福岡県令渡辺清の撰。
この碑の前が太宰府一のパワースポットといわれています。
風水によると後ろに控える四王寺山や宝満山の気がここで一気に噴き出すところといわれています。
以前若い女性はビリビリ来ますと言っていました。
また鬼門の北東に竈門神社を造って防御しています。
前方遠くに基山が見えます。
大宰府展示館横の碑
「万葉集梅花の歌三十二首序文」
時の旅人プロジェクト 令和元年太宰府市
梅のころ
桜のころ
紅葉のころ
大宰府政庁の廃絶
大宰府政庁は律令制の崩壊とともに1000年代中頃には衰退が見え始め、1100年代前半には廃絶したと見られています。
大宰府学校院跡
(政庁跡から市役所方面へ100mほどの場所にあります)
太宰府の役人の養成機関。
781年の太政官符に「府学校に六国(筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後)の学生、医生、算生200余人あり」とあり太宰府が学問の中心地としても機能していたことを知ることができます。
山上憶良の碑
(学校院跡の近くにあります)
[660~733ころ]奈良前期の官人・歌人。大宝2年(702)渡唐し、帰国後、伯耆守 (ほうきのかみ) ・東宮侍講・筑前守を歴任。
「うりはめば こどもおもほゆ くりはめば ましてしぬはゆ
いづくより きたりしものそ まなかひに もとなかかりて やすいしなさぬ」
大宰府政庁の設立年月日は不明ですけど663年の白村江の戦いの後に創建していますので今から約1350~60年前にここに九州管轄の政庁が建てられ、この政庁があったからこそ菅原道真公は流されて来て、太宰府天満宮が建てられ、天満宮があったから都から五卿が流されてきて勤王の志士たちの西郷隆盛、坂本竜馬、高杉晋作、僧月照等が集まり明治維新に発展していったことなどのつながりに思いを巡らしながらこの全景をみますと思いは募るばかりです。
ここ大宰府政庁跡は太宰府歴史の本丸中の本丸と思います。
一級品の史跡です。
お問い合わせ・ガイドの依頼はコチラから
▶fukuda0917@yahoo.ne.jp
塾長より
いつも記事をお読みいただきありがとうございます。
もしよろしければ記事の一番下にある「コメントを残す」より
コメントを書いていただけますと、記事を書く励みになります。
これからも太宰府の魅力をお伝えしていきますので
応援よろしくお願いします。
▶fukuda0917@yahoo.ne.jp
塾長より
いつも記事をお読みいただきありがとうございます。
もしよろしければ記事の一番下にある「コメントを残す」より
コメントを書いていただけますと、記事を書く励みになります。
これからも太宰府の魅力をお伝えしていきますので
応援よろしくお願いします。
各所の写真がとてもよく撮れています、説明文も簡潔で解りやすいですね、ありがとうございます。
匿名さんコメントありがとうございました。お誉めにあずかりこれからも精進します。
菊池の古代山城「鞠智城」は、外国からの敵の侵入をふせぐために665年ころに造られたと言われていますが、その頃は郭無双がすでに都府楼に駐留していたのではないかと思います。郭無双の駐留期間中に「大野城」や「鞠智城」などがつくれるでしょうか?各無双はいつ頃何の目的で都府楼に来たのでしょうか。お教えください。
中原英さんコメントありがとうございました。詳しいですね。
「白村江戦い後、鞠智城の築城は、大宰府と連動した軍事施設で、大野城・基肄城などとともに北部九州の防衛拠点であり、兵站基地や有明海からの侵攻に対する構えなどが考えられている」とありますので、郭無双は鞠智城の建設に関わった百済からの亡命者(台湾系?)ではなかろうかと思われますけど、初めて聞いた名前でわかりませんので、今大宰府市に問合せしているところです。
詳細わかればこの欄で回答いたします。よろしくお願いします。
コメントいただいた菊池の中原英さんへの回答です。
以下太宰府市文化財課の方からの回答です。
さて、お待たせしました宿題のお答えです。
郭務そう(かくむそう)について、大宰府市公文書館の方に教えていただきました。「そう」の漢字は、りっしんべんに宗と書きます。
郭務そうは唐の官人で、天智天皇3(664)年5月に百済鎮将の使人として、来日しています。しかし、朝廷は正式な唐の使者ではないとして、上京させていないようで、郭務そうはその年の冬に離日しています。
この時の来日の目的ですが、明確な記載がなくわかっておらず、いろいろと研究がなされているようです。
ひとつの説として、元九州歴史資料館の倉住靖彦氏の『古代の大宰府』によれば、戦後の日本との接触ないし国交回復のための予備交渉ではないかと推測されています。なお、この時は筑紫まで来ずに対馬までしか来ていないのではないかとも考えられています。戦後すぐ状況下で危険を冒したくない郭務そうと築城など行っている状況を見せたくない日本側との思惑が一致した結果かもしれません。
ですので、大野城や鞠智城の工事状況は見ていない可能性が高いですね。
太宰府市文化財課Mさん早速お骨折りいただきありがとうございました。
あちこち調べましたけど名前さえ出て来ず困っていたところでした。
さすが公文書館ですね!これもMさんのお陰です。本当にありがとうございました。