こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。
水城跡とは
664年日本で最初に築造された九州最大の防衛施設です。
土塁の規模は長さ約1.2km、基底部約80m、高さ約9m、外堀の水深約4m(下図の高さ13mとあるのは高さ9mと水深4mを含めて13mと書いていると思われます)、内堀の幅は大宰府側に4.5m~10mの環状遺構、外堀の幅は博多側に約60mあり、堀には水が貯えられていました。
太宰府側(防御) 博多側(敵の侵入)
水城の構造
土塁
・版築工法・・・真砂土と粘土を交互に突き固める工法で、土砂崩れを防ぎます。
・敷粗朶工法・・軟弱地盤を補強するために樹木の枝葉(粗朶)を敷き詰める工法で、地滑りや地盤沈下を防ぎます。
いつ築造されたのか?
天智天皇の664年に築造され、665年には大野城・基肄城が築造。
兵法に通じた百済の防衛思想や構築技術が導入され1年間で施工。
1日当たりの作業員は3500人、1日の作業時間は11時間、1年間の作業日数は319日と推測。
何のために築造されたのか?
大和政権は唐・新羅に侵攻され660年滅びた百済に救援を送り出すが663年白村江で大敗。
唐・新羅の侵攻に備え、防備を固めるため664年に水城を造り、翌年665年に大野城・基肄城を築く。
なぜこの場所に築造したのか?
ここは博多側から太宰府へ抜ける最も狭い場所で築堤に適しているため平坦部を塞ぐように築造。
この狭い場所に国道三号線、旧国道三号線、JR、西鉄電車などほとんどの主要幹線道路や線路が通っています。
(以上 特別史跡 水城跡 文化遺産巡りマップ 参照)
水城の位置図
博多側からの水城
今は木が生い茂って堤防は見えませんが高低差はわかります。
博多側に幅約60mの堀を造っていました。
当時の矢は60m以上は飛ばなかったからだそうです。
水城大堤之碑
水城東門跡
官道
太宰府の出入口となった水城西門・東門を通過する直線道。西門ルートは筑紫館(鴻臚館跡)と太宰府を結ぶ道で、外国使節はこのルートで太宰府へ入った。東門ルートは博多に繋がっており都からの官人赴任ルートとみられる。西門・東門ルートともに現在は市道として踏襲されている。
東門ルートと西門ルート
水城館
(休憩場、トイレ、ビデオ、解説あり)
開館時間:9:00~16:30
毎週月曜日休館(祝日の場合は同一週最初の平日)、12/28~1/4休館
住所:太宰府市国分2-17-10
電話:092-555-8455
展望台から太宰府側の水城
太宰府側の高低差がわかります。
木樋
太宰府側から博多側の外堀へこの木樋を通して水を流して貯めていました。
ヒノキ材を使用し内法で幅1.2m、高さ80cmの大きさで、底板2枚は鉄製のかすがいで留められていました。
水城西口
東口からここ西口まで約1.2Km。
西口の太宰府側の高低差
菜の花のころ
桜のころ
紅葉のころ
664年に真砂土、粘土、砂、枝葉などを突き固めて造ったこの水城が約1350年後の今でも壊れずに残っている技術に驚きを禁じえません。
当時百済から約10万人が日本に亡命して来たといわれており、その人たちがヨーロッパ、インド、東南アジア、中国、韓国などの文化、芸術、産業などを持ち込み日本の発展に大いに貢献したと思われます。
大宰府政庁跡とこの水城が太宰府の歴史の本丸だと思います。
▶fukuda0917@yahoo.ne.jp
塾長より
いつも記事をお読みいただきありがとうございます。
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これからも太宰府の魅力をお伝えしていきますので
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西暦730年妻を亡くした大伴旅人は大和に帰るにあたって筑紫の遊女「児島」との別れの舞台となったのが水城とあります。
「大和道(じ)は 雲隠(くもがく)りたり しかれども 我が振る袖を 無礼(なめ)しと思(も)ふな」巻6-966 児島
(とは云うもののあなた様がはるか遠い雲の彼方と思われる大和にお帰りになると思うと、もう二度とお会いできないという気持がこみ上げ、ついに堪えきれず袖を振ってしまいました。どうか無礼な仕業とお思い下さいますな)
旅人も落涙を禁じえず、大勢の人の前で次の歌を返します。
「ますらをと思へる我や水茎の 水城(みづき)の上に涙拭(のご)はむ」 巻6-968 大伴旅人
(それにしても堂々たる男丈夫と自他共に自認しているこの私なのに 涙が溢れて止まらないとは一体どうしたことだろう。この水城での辛い別れのことだ。)
旅人の人柄が偲ばれる一首です。
うっちゃんコメントありがとうございます。昔の人は風流で、歌が読めないと恋もできなかったようですね。
どこからこういう情報は出てくるのですか。恐れいります。
水城と水城館は2023年5月に見学しました。天神から西鉄電車に乗り都府楼前駅で降りてから歩きで大宰府政庁跡、太宰府天満宮と巡り、再び政庁跡から国分寺跡を経由して水城へとたどり着きました。
サイトの説明で水城は、「664年に築造、665年には大野城・基肄城が築造」とありますが、水城だけでも1年間、1日当たり3500人の作業員で築くのは厳しいと思います。
2019年10月22日の西日本新聞の記事には「全長51キロに及ぶとされる羅城の壮大なスケール」との表現がありますが、大宰府展示館で大宰府を囲む土塁の絵図が展示してありました。NHKのタモリの番組でも羅城を取上げていました。
周囲を土塁と山城で囲むのは、海からだけではなく全方位の防御施設と思います。そうであれば、長い年月をかけて水城を含め築き上げたのではと想像します。
CNTKHさんコメントありがとうございます。水城、大野城、基肄城以外の羅城の築年不明ですけど多分664~665年には完成したのではないかと思われます。
参考までに。大和朝廷は663年の白村江の戦いで大敗した後、新羅、唐の侵攻に備え664年水城、博多湾の近くにあった那津官家(大宰府政庁の前身)を664~665年(築年不詳)に太宰府に移し大宰府政庁を築造。
665年に大野城(太宰府)と基肄城(佐賀鳥栖)、664~667年(築年不詳)のころに兵站基地として鞠智城(熊本菊池)、665年長門城(山口)、667年屋嶋城(香川)、岡山に鬼ノ城(築年不詳)、667年最先端基地として金田城(対馬)を築城、667年都を海の近くの難波津(大阪)から大津宮(近江)に移転。
ここに対馬から太宰府、大津宮への一大防衛施設を完成させました。時の天皇は天智天皇。
なお、対馬から太宰府、大津宮までの通信手段は狼煙(のろし)でした。
(注)古代の役所や遺跡は「大宰府」、地名や天満宮は「太宰府」と使い分けをしています。
あ~~
面白かった❗️
とてもとても勉強になります。
福岡人なのに、ほんとに何も知りません。
うっちゃんさんやCNTKHさんのコメント読んでも…
塾長様だから
こういう返しができるんですね。
感心するばかりです。
もっともっといろいろ知りたいです。
よろしくお願いします。
それにしても
対馬から太宰府への通信手段は狼煙ですか(笑)
昔の人は目もよかったんだなぁ~(笑)😃💦
momoさんコメントありがとうございます。このブログは本文書くよりコメントへの返事書くほうが苦労します。また読者の方からこのブログは本文よりコメントの方がレベルが高く勉強になるとよく聞きます。
日本全国(世界❓️)の方が見られてるんですもんね。
かなり知識高い方や専門分野の方も見られるでしょうし。
でも、塾長様の素晴らしいところは、とてもわかりやすく書かれるところです。
誰でもは、できません😌💓
momoさんコメントありがとうございます。
今後もわかりやすいブログをめざしていきますのでよろしくお願いします。
お早うございます。663年白村江で大敗の後、664年に水城の堤防、665年に大野城等今から約1400年前に築城されたとは、作業員3500人、作業時間11時間等その当時にこれだけの大規模な防衛施設を作るとは、この工事で犠牲者もかなり出たでしょうね。由緒ある水城の堤防の近くに住んでいることに感謝ですね。有り難うございました。
暑中お見舞るさんコメントありがとうございます。
太宰府は歴史の宝庫であり太宰府天満宮ではいつも何かのイベントが催され、九州国立博物館もあり、さらに自然が残っていて四季折々の花々が楽しませてくれとてもすばらしいところですね。