こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。
 
2019.4.20の記事を加筆修正しました。
 
「太宰府魅力発見塾」のホームページの最初の画像はこの「大宰府政庁跡」です。
私が一番好きな場所です。
 
(注)古代の役所や遺跡は「大宰府」、地名や天満宮は「太宰府」と使い分けをしています。

大宰府政庁(都府楼)とは?

7世紀後半663年の白村江の戦い(日本・百済対新羅・唐)で日本・百済の連合軍は大敗。新羅・唐の連合軍が日本を攻めてくる可能性があったために大和朝廷は博多湾近くにあった536年設立の那津官家(なのつのみやけ)を太宰府の水城に水城堤を造り大宰府政庁を移設し防御態勢を築く。
大宰府政庁は奈良・平安時代を通して、九州を治め、我が国の西の守り(防衛)、外国との交渉の窓口となる役所(大宰府)としました。その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものでした。

都府楼とは

中国式の名称で都督府(官庁)の楼閣(高級な建物)のことです。

 
  Ⅰ期
7世紀後半~8世紀初頭。Ⅰ期の建物は現在表に見えているような礎石建物ではなく、全て掘立柱の瓦を葺かない建物でした。
 
 Ⅱ期
8世紀初頭~10世紀中頃。建物は後殿の一部を除いて全て総瓦葺きの礎石建物となります。正殿・脇殿・中門・回廊などを伴った政庁は「西都大宰府」としての風格を備えていました。
 
Ⅲ期
10世紀後半~11世紀初頭。941年大宰府は藤原純友によって焼き討ちに遭います。この戦火でⅡ期の建物は焼け落ち、その上にⅢ期の政庁が復興されました。

大宰府政庁の廃絶

大宰府政庁は律令制の崩壊とともに1000年代中頃には衰退が見え始め、平安末期には政治的な中心地は博多へ移り、そして鎌倉時代に鎮西探題(幕府の九州統括機関)が博多に置かれると、大宰府は実権を失って機能を停止しました。

白村江の戦いから都を大津宮へ遷都まで

防衛施設の配置図

唐・新羅連合軍が九州から瀬戸内海を通り都の大津宮に侵攻予想

年表
536年那津官家設立
660年百済が唐・新羅連合軍に敗れ滅亡
661年斉明天皇が九州へ下るも急死
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663年白村江の戦いで倭(日本)・百済の復興軍は大敗
664年:対馬・壱岐・筑紫国などに防人と烽(とぶひ)を配備し、筑紫国に水城を築く
築年不明:大宰府政庁設立
665年大野城基肄城(きいじょう)を築く
667年金田城を築く
築年不明:熊本菊池に鞠智城(きくちじょう)を築く
築年不明:山口に長門城を築く
667年:香川に屋嶋城を築く
築年不明:岡山に鬼ノ城を築く
667年:都を飛鳥から内陸の大津宮へ遷都

ここに天智天皇(大和朝廷)は唐・新羅連合軍の侵攻に備え都の大津宮までの一大防衛施設を築く。

都の大津宮を守るために九州は大宰府政庁を中心に水城、大野城、佐賀基山に基肄城、最先端基地として対馬に金田城、熊本菊池に鞠智城、瀬戸内海からの侵攻に備え北部九州に防人の配置、山口に長門城、香川に屋嶋城、岡山に鬼ノ城、都を飛鳥から内陸の大津宮へ遷都
 
結果的に唐・新羅は日本には攻めて来ませんでした。
 
太宰府は太宰府だけの防衛ではなく日本の防衛の拠点だったのですね。
 
以下関連ブログ
 
665年大野城を築く

大宰府政庁跡のパワースポット

大宰府政庁をここに造った理由

この地が四神相応の地であるからです。

後背地に宝満山、四王寺山を控えその気が一気にここに集まると言われています。

四神相応の地とは東アジア・中華文明圏において、大地の四方の方角を司る「四神(玄武(北)・青龍(東)・朱雀(南)・白虎(西))」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢や地相のことをいいます。

史跡大宰府跡の碑

後ろの山は四王寺山

岩屋城は山の右端にあります。

全景

何も建物がないところがいいです。

大宰府政庁跡の広い敷地の中央の奥にある3つの碑

正殿が建っていたところ。

右から

●太宰府碑:福岡藩西学問甘棠館の館長亀井南瞑撰文。南冥没後100年の1914年建立。

●都督府古址:1871年現大野城市の大庄屋高原善七郎美徳建立。

●太宰府址碑:1880年大宰府政庁跡が煙滅することを恐れた御笠郡の人々が建立。福岡県令渡辺清の撰。

この碑の前が太宰府一のパワースポットといわれています。

風水によると後ろに控える四王寺山や宝満山の気がここで一気に噴き出すところといわれています。

以前若い女性はビリビリ来ますと言っていました。

また鬼門の北東に竈門神社を造って防御しています。太宰府,太宰府政庁,パワースポット,

 
前方遠くに基山が見えます。
 

大宰府政庁跡梅のころ

 

 

 

大宰府政庁跡桜のころ

 

 

大宰府政庁跡紅葉のころ

 

 

大宰府政庁跡ホタルのころ

 

 

大宰府学校院跡

(政庁跡から市役所方面へ100mほどの場所にあります)

太宰府の役人の養成機関

781年の太政官符に「府学校に六国(筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後)の学生、医生、算生200余人あり」とあり太宰府が学問の中心地としても機能していたことを知ることができます。
 
 
 
 

山上憶良の碑

(学校院跡の近くにあります)

[660~733ころ]奈良前期の官人・歌人。大宝2年(702)渡唐し、帰国後、伯耆守 (ほうきのかみ) ・東宮侍講・筑前守を歴任
 
 

「うりはめば こどもおもほゆ くりはめば ましてしぬはゆ

いづくより きたりしものそ まなかひに もとなかかりて やすいしなさぬ」

 

大宰府政庁の設立年月日は不明ですけど663年の白村江の戦いの後に創建していますので今から約1350~60年前にここに九州管轄の政庁が建てられ、この政庁があったからこそ菅原道真公は流されて来て、太宰府天満宮が建てられ、天満宮があったから都から五卿が流されてきて勤王の志士たちの西郷隆盛、坂本竜馬、高杉晋作、僧月照等が集まり明治維新に発展していったことなどのつながりに思いを巡らしながらこの全景をみますと思いは募るばかりです。
 
ここ大宰府政庁跡は太宰府歴史の本丸中の本丸といえます。
 
一級品の史跡です。
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塾長より

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