こんんちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。
今回は太宰府天満宮の境内にある麒麟の像について案内します。
 
 
 
 
 
 
 
 
太宰府天満宮境内の手水舎の近くにある麒麟の像です。
元々麒麟(麒はオス、麟はメス)の像は境内に二体あったけど戦時中に、一体は供出に差し出され弾になったとか?
 
1852年に100人近くの博多商人が奉納しています。
 
実は、この麒麟像をグラバー邸で有名なトーマス・グラバーが譲ってほしいと太宰府天満宮にお願いしていたらしいのです。
 
残念ながらグラバーは手に入れることがでいませんでした。
 
グラバーは明治維新後も日本に滞在を続けて、三菱の顧問として岩崎弥太郎に招かれ、三菱の事業拡大に協力しました。
 
そしてキリンビールの前身の「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」を三菱の岩崎弥太郎の出資のもとに明治18年(1885年)に設立しました。
 
その3年後に三菱に事業売却し後にそれが麒麟麦酒(株)になりました。
いわゆる「キリンビール」ですが、その麒麟麦酒のロゴが上記グラバーが麒麟像を譲ってほしいと言ったからか、ラベルの麒麟は太宰府天満宮の麒麟像をモチ-フにしたという説があります。
 
 
一般的にはロゴの作成は当時、ヨーロッパではビールに狼や猫、犬などの動物の名前をつけている事が多かったので、何か強くて印象が良く、馴染みやすい動物はないものかと検討されたそうです。
そして当時、幹部であった荘田平五郎が提案した麒麟が選ばれたと言われています。
 
 
もう1つ面白い説があって、このグラバーと岩崎弥太郎(土佐の出身)は土佐の坂本竜馬とも親交がありました。
長崎のグラバー邸には屋根裏に「竜馬の隠れ部屋」という隠し部屋を作っていたほど親交が深かったのです。
 
麒麟の姿を見てみると頭が「竜」、体が「馬」です。
後ろから見るとたてがみがありますね。
このたてがみは竜馬の背中に生えている毛も連想させ麒麟の像が作成されたという説もあります。
 
 
この坂本龍馬は当時の日本では先進的な考えの持ち主で有名ですが、次のような逸話が残っています。
 

当時土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。

あるとき龍馬の旧友が龍馬と再会したとき、龍馬は短めの刀を差していた。

そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが立ち回りがよい」と言われ、納得した旧友は短い刀を差すようにした。

次に再会したとき、旧友が勇んで短い刀を見せたところ龍馬は懐からピストルを出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。

納得した旧友はさっそく拳銃を買い求めた。

その後再会したとき、旧友が購入した拳銃を見せたところ龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。

もはや旧友はついていけなかったという。

これはあくまで逸話であって史実ではないと言われていますが、龍馬の性格を鮮やかに描写しています。

 

この坂本竜馬のピストルが太宰府天満宮内の宝物殿にあるのはご存知でしょうか?

 
なぜ高知の「坂本龍馬記念館」ではなく太宰府天満宮の宝物殿にあるのかわかりませんが、
やはり太宰府はそれだけ幕末とも縁が深かったのでしょうね!
 
 
おまけ・・・
 
麒麟像の説明書きの中に「鷽像」とありますので紹介します。
 
なんだかかわいいですよね!
 

鷽(うそ)は、スズメ目アトリ科の小さな鳥です。

森林に生息し、口笛のような鳴き声が古くから好まれていました。

うそという名前は、口笛を意味する古語「うそ」からきているそうです。

 

鷽は太宰府天満宮の守り神なのですがなぜかというと

「菅原道真が蜂の大群に襲われた時、鷽の群れが蜂を食べて救った」。
「天満宮の建築用材木を虫が食った時、虫を鷽が退治した」。
「鷽の字が、学(學)の字に似ているので(学問の)道真に縁のある鳥だ」
という説があります。
 
 
 
今回は長くなりました。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
 
太宰府天満宮にはみなさんの知らない見どころが他にもあると思います。
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塾長より

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