こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

先日太宰府魅力発見塾のカメラ部で秋月へガイドと撮影会に行 ってきました。

今回新しく入会の女性も一緒でした。

以下に会員のみなさんの写真を入れながらの案内です。ご覧ください。

長生寺

境内の案内板の内容をそのまま記載します。

曹洞宗 医王山 長生寺

釈迦牟尼仏をご本尊と仰ぎ、玖天全良大和尚によって開かれたこの禅寺は、 慶長5年1600年当時の戦没者の霊を慰めるために開基 興膳善入によって建立された。

また、 境内には種痘の始祖秋月藩医緒方春朔翁の墓や秋月党の指導者宮崎三兄弟の墓等がある。 秋葉堂の天井の絵画は著名な秋月藩お抱え絵師斎藤秋圃のものである。

 

          (塾長)

 

          (kan)

 

            (kan)

古心寺

秋月藩を立藩した黒田長政の三男、黒田長興が父の菩提を弔うために秋月陣屋の陣下に建立、開基。開山は江月元玩。

秋月黒田家当主歴代の菩提寺であり、境内墓所には「日本最後の仇討ち」で有名になった臼井六郎や剣術師藤田智己などの墓所がある。

 

           (塾長)

秋月藩初代藩主黒田長興の墓

           (塾長)

秋月藩黒田家歴代の墓

           (塾長)

福岡黒田藩の菩提寺は崇福寺(一部東長寺)ですけどそこの墓石と古心寺の墓石の形は全く同じでした。

 

腹切り岩

 

古心寺の手前を右に行ったところに大岩が3つある。
豊臣秀吉の九州征伐の時、恵利内蔵助暢尭(えりくらのすけのぶたか) が主の秋月種実に秀吉との和議を進言したが聞き入れられず身の潔白を明かすため切腹。 

場所3つある岩のうち、上面が平らな畳3枚分の広さがある北側の岩が腹切岩。
切腹してでも訴えたのに聞き入れてもらえず秀吉により日向高鍋へ移封されさぞ無念だったろうなと思います。  (インターネットより)

 

恵利内蔵助暢尭は切腹すると禄を召し上げられ妻子が困るので先ず妻子を殺害し自分が切腹。

 

秋月家高鍋へ移封

1852 明智光秀、織田信長を殺害

豊臣秀吉は全国統一を目指し九州へ進攻

1856 一方全国制覇を目指す薩摩軍は北上し、大宰府の岩屋城を秋月藩と攻め落とし新宮の立花城まで進攻し南下してきた秀吉軍に敗北

恵利内蔵助暢尭は広島まで秀吉の陣容を偵察に行きそのあまりの偉大さを目の当たりにして秋月種実に秀吉との和議を進言したが聞き入れられず。

1857 秀吉により秋月家日向高鍋へ36万石から3万石で移封。

 

立花宗茂

岩屋城城主高橋紹運の息子宗茂は立花城城主立花道雪の娘誾千代の婿養子となり秀吉軍と薩摩の戦いで功を立て秀吉により柳川藩初代藩主となる。

 

上杉鷹山は秋月の出身

米沢藩の藩政改革を成し遂げケネディ元大統領により日本で有名になった人物。

1587  秀吉により秋月家が高鍋に移封され、1600 関ケ原の戦い後黒田官兵衛の末弟直之が秋月を治め、1623 黒田長政の三男長興が秋月藩初代藩主となる。

日向高鍋6代藩主秋月種美の次男、母は筑前秋月4代藩主黒田長貞の娘春姫。母方の祖母の豊姫が米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘である。

このことが縁で10才で米沢藩の8代藩主重定の養子となる。

上杉鷹山は秋月の血を引いていたんですね。

 

鳴渡観音

初代秋月藩主黒田長興公が、「腹切岩」の恵利暢尭(えりのぶたか)の殉忠に感激し、墓石の上にお堂を建て観音像を祀ったものとあります。

    (インターネットより)

大涼寺

大涼寺は、秋月藩祖 黒田長興が母大涼院の菩提を弔うために建立されたお寺です。 

黒田長政夫人大涼院殿菩提所です。

長興の母は徳川家縁の方でもあり保科正直の娘で徳川家康の養女・栄姫です。 

 

           (kan)

楼門
                       (塾長)

本堂

           (塾長)

本堂内に葵のご紋が見えます

           (塾長)

 

           (kan)

大涼院殿墓所は本堂の裏山に大きな墓石があります

           (塾長)

さすがに徳川家出身だからか一人だけの菩提寺ですね。

 

          (kazu)

清流庵

料亭旅館で門を抜けると、約2400坪の広大な敷地が広がり、四季折々の景色を楽しませてくれる美しい日本庭園があります。
広大な敷地のなかに客室は母屋と離れにわずか6室のみ。すべて温泉付のお部屋でゆっくり周りを気にすることなく静かに過ごすことができるそうです。
お昼の食事だけの利用も可です。

           (塾長)

 

庭園内

           (kazu)

 

                                           (kazu)

 

庭内を流れるせせらぎ

           (塾長)

 

             (kazu)

 

日限地蔵院

約300年前、黒田家の家臣が参勤交代の際に腸チフスと言う大病をわずらい、江戸の松秀寺で日限地蔵尊に祈願して一命を取り留めたといわれ、帰国後再び江戸に上りその御分身をもらい安置したのが始まりと言われています。

 

         (塾長)

武者返しの石垣

この石垣は明治33年内田幾太郎が熊本城の石垣を参考に建設。

           (塾長)

 

杉の馬場

両側に桜を200本ずつ植えた約500mの道は春は桜、秋は紅葉がトンネル化し人の目を楽しませてくれます。

江戸時代杉の馬場は両側に杉が植えてあり名前の通りここで馬を走らせ調教練習をしていたところです。

明治38年日露戦争の戦勝記念に桜に植え替え今に至っています。

 

    (インターネット)

    (インターネット)

 

黒門(秋月城の大手門)

以前は堀の石垣の中央に大手門としてあったものを明治初期藩主黒田長興を祀る垂裕神社を建てる際に現在の位置に移されたもの。

                                       (kan)

 

                                             (kan)

 

             (kazu)

 

             (kazu)

 

垂裕神社

祭神は垂裕明神(黒田長興)

秋月藩初代藩主黒田長興及び歴代藩主・藩主夫人・公子・秋月出身の島原の乱~太平洋戦争までの戦死者を祀る。

                                              (塾長)

本堂

           (塾長)

 

             (kazu)

 

日本最後の仇討

臼井六郎は明治に改元される幕末最後の年に、藩内の政治的対立から暗殺された両親(父親臼井亘理、母親清子)の仇討ちを13年後に果たしたが、明治政府が発布した仇討禁止令により犯罪者となり、裁判で懲役刑を宣告された。

江戸時代であれば武士の誉れと称えられたものが、時代の変化により断罪されるという、明治維新の渦に翻弄された事件として世間を大いに賑わせた。

 

墓は古心寺境内にあります。

                   (インターネットより)

 

臼井亘理の邸宅があったところ。

ここで臼井夫妻干城隊に殺害さる。

                                              (塾長)

 

                                               (塾長)

 

1868(幕末、明治元年 10才) 臼井亘理 都から帰任当日慰労会をした翌明け方午前4に家老吉田吾郎の指示により干城隊数十人により父親臼井亘理、母親清子を殺害。首実験後その首を臼井家の塀から投げ込む。息子六郎は殺害現場並びに首が投げ込まれるところを目撃。

翌明治維新後殺害者一瀬直久(旧山本克己)は裁判所の判事となり名古屋、甲府で勤務、その間追跡を続けるも仇討の機会に恵まれず。

1873 (明治6年)仇討禁止令発布

1880(明治13年 仇討 23才)ついに東京で仇討。仇討禁止令発布後で殺人罪となり無期懲役の判決。

殺害者一瀬直久の父親は臼井六郎求刑後首吊り自殺。母親殺害の萩谷伝之助は仇討を知った後次は自分が仇討されるかと気が狂い灰が入っているカマスに首を突っ込み窒息死。

1890(明治23年恩赦 33才)10年後明治憲法発布の恩赦特例で釈放。

1917(大正6年 死去 59才) 奥さんの里の鳥栖で待合所を営み59才で死亡。

 

この畑は今は単なる畑ですけど、ここが日本最後の仇討の殺害場所だったのかと思うと何回来ても感慨に耽ります。

日本最後の仇討をテーマにした小説は吉村昭「敵討」、葉室麟「蒼天見ゆ」があります。

 

久野邸

 

 

 

城下町秋月の中でも、武家屋敷の様相を残している数少ない家屋のひとつで、秋月黒田五万石の初代長興公より知行を受けた上級武士の屋敷である。腕木門仲間部屋、母屋、蔵資料館、離れ座敷、庭園など、当時のままを忠実に再現している。

  (インターネットより) 

 

久野邸は久光製薬(サロンパス)の会長中冨隆博の母の生家であったことから現在久光製薬が管理をしています。

 

眼鏡橋

秋月目鏡橋は藩主の命を受け家老宮崎織部が長崎の石工を雇い文化7年(1810年)に築造させた石橋です。

この橋は我国唯一の御影石(花崗岩)造りの石橋であり県指定有形文化財になっています。
しかし、この石橋を造るには大変な苦労があったようです。と言うのは、 この橋は1805年(文化2年)に工事が開始され、約2年後の完成直前に崩壊してしまったのです。

再度の工事で1810年(文化7年)にようやく完成しました。工事を開始してから5年の歳月が掛っての完成なのです。

                                          (kan)

 

                                               (塾長)

 

             (kazu)

 

                                                    (kazu)

みなさんからたくさんの見事なキレイな写真が送ってきましたのですべてアップしたかったのですけど、廻った順序に歴史解説を入れながらそれに関連する写真をアップしました。

アップできなかった写真にはほんとうに申し訳ありませんでした。

晴天に恵まれ絶好の行楽日和で途中パン工房「月の峠」で長蛇の列に並びやっとおいしいパンにありつき、おやつには廣久葛本舗でとてもおいしい葛切りや葛餅を食べ楽しい撮影会になりました。

次回はどこに行くか今から楽しみです。

みなさまお疲れ様でした。




塾長より

いつも記事をお読みいただきありがとうございます。
もしよろしければ記事の一番下にある「コメントを残す」より
コメントを書いていただけますと、記事を書く励みになります。
お名前はニックネームでも大丈夫です。

これからも太宰府の魅力をお伝えしていきますので
応援よろしくお願いします。