こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

先日福岡市博多区山王公園内の日吉神社に行った折、宮司さんに教えてもらい大宰府政庁の前身【那津官家(なのつのみやけ)】があった比恵遺跡に行ってきました。

 

春住小学校

 

博多駅南5丁目信号

 

比恵遺跡は「春住小学校」と「博多駅南5丁目の信号」に間にあります。

国指定史跡 比恵遺跡

所在地:福岡市博多駅南4丁目

2002年3月福岡市教育委員会

説明板

「比恵遺跡は、那珂川と御笠川に挟まれた丘陵上に立地し、縄文時代の終わり頃から戦国時代に至るまでの集落、墳墓地として知られています。
 福岡市教育委員会が実施した第8次(1984年)と第72次(2000年)の発掘調査によって、3本柱の柵に囲まれた倉庫と考えられる10棟の総柱建物を発見しました。その時期は、6世紀後半から7世紀後半と考えられます。周辺の調査などから、南北55~58m、東西50m以上の方形区画が推定されます。
 これらの遺構は『日本書紀』宣化元年(536年)の条に記述されている那津官家に関連するものと考えられ、極めて歴史的価値が高いものです。

2001年月に8月に国史跡として指定されました」。

那津官家

「那津官家とは、大和政権が朝鮮半島情勢の緊迫化を受け、536年に国内基地として造営したものです。政治的、軍事的な機能を持ち、7世紀後半に大宰府が設置されるまで、その役割を担いました」。

太宰府に移設した理由

663年の白村江の戦いで日本・百済の連合軍が新羅・唐の連合軍に大敗し、那津官家は博多湾近くでは新羅に攻められやすく大宰府に移し守りを固めるためです。

博多古図(写真提供内田さん)

当時の海岸線は8.住吉神社から11.塩原(西鉄大橋駅近く)まで入り込んでおり比恵遺跡も那珂郡三宅郷(南区三宅)も海岸に近かったことがわかります。

 

国指定 比恵遺跡

福岡市

 

国史跡 比恵遺跡

(子ども向けの説明)2018年12月福岡市

国史跡比恵遺跡と那津官家

説明板

「官家とはミヤケと読み、屯倉、三宅などとも表記します。

この記述にみる、博多湾岸におかれたミヤケは、通常、那津官家と呼ばれます。かって那津官家はミヤケという読み名が共通することから、那珂郡三宅郷(南区三宅)にあったと考えられていました。

しかし、この地で行われた昭和59年(1984)・平成12年(2000)の二度にわたる発掘調査の際、3本柱の柵に囲まれた大規模な倉庫群が発見されたことで状況が一変します。これらは、規模の上でも、そして建物配置の規格性からみても、きわめて国家的な施設であると考えることができます。

また周辺には、三宅田、官田など、ミヤケとの関連が強い小字名が知られています。

この場所こそが那津官家の所在地としてふさわしいといえるでしょう」。

 

 

今まで那津官家は那珂郡三宅郷(南区三宅)にあったと思っていました。

しかし、1984年・2000年の二度にわたる発掘調査で比恵遺跡が那津官家の所在地としてふさわしいとして2001年月に8月に国史跡として指定されました。

まだ20年前のことで私にとっては大発見でした。

新しいことの発見はとても楽しみです。

536年大和政権は日本との朝鮮半島情勢の緊迫化を受け那津官家を設立とのことですけど今から1500年前も今も状況は全く同じで更に緊迫化は進んでいるようです。

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塾長より

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