こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

昭和の大横綱双葉山が太宰府と深い縁があったので調べてみました。

大横綱双葉山

大分県宇佐市出身

1912年(明治45)2~1968年(昭和43)56才

身長179cm、体重122kg

双葉山は七才の時、川遊びの最中右眼を傷つけ失明。

Futabayama Sadaji.jpg

 

決して待ったをしなかったのは法華信仰の「忍難慈勝」から、土俵に上がる前に「気分の整理」、「精神の統一」をして「虚心坦懐に」勝負に望むべきであることを学んだ(自書 横綱の品格より)。

名解説で人気があった神風正一談「待ったをしないのは余計な動きをせず『後の先』を取るため」。

大横綱双葉山の経歴

双葉山 - 歴代横綱 - 日本相撲協会公式サイト

優勝12回

(当時は年2場所制)

以下三役以降

1927年 (15才)入門

(1930年 序二段の頃双葉山、重い脚気を罹い日蓮宗の妙正尼に会い完治)

(1932年 九州場所始まる)

1936年 (24才)1月場所(9-2)後半5連勝から69連勝の始まり

関脇 5月場所 優勝(11-0)新三役2場所で大関へ

1937年 (25才)大関 優勝2回 (11-013-0)大関2場所で横綱へ

1938年 (26才)横綱 優勝2回 (13-013-0

1939年 (27才)横綱 1月場所(9-4)3日目までで69連勝。5月場所優勝(15-0)

1936年~1939年の間69連勝

undefined

(1940年成績不振で途中休場、投埜尼(なげのに。妙正尼の妹)に勧められ福岡の那珂川で1ヶ月滝行)

1940年(28才)横綱 優勝1回 (14-1)

1941年(29才)横綱 優勝1回 (14-1)

1942年(30才)横綱 優勝2回 (14-1、13-2)

1943年(31才)横綱 優勝2回 (15-0、15-0)

1942年~1943年の間4場所連続優勝

1943年10月戦争が激しくなったため道真公の先祖で相撲の祖神とされる野見宿祢公が祀ってある大宰府天満宮近くの現太宰府市三条に疎開し双葉山相撲錬成道場」を開く。

1945年(33才)引退

(1949年ひと場所15日制定着)

(1958年年6場所制なる

1965年 妙音教会建立

1968年 死去56才)

 

歴代連勝記録 
順位  力士名           連勝
1位 双葉山   69
2位 白鵬    63
3位 千代の富士 53
4位 大鵬    45
 

通算成績(カッコ内、上段:大鵬、下段:白鵬)

 通算成績

  348勝116敗33休 勝率.750

        (872勝182敗136休 勝率.827)

       (1187勝247敗253休 勝率.828)

 幕内成績

  276勝68敗33休勝率.802

       (746勝144敗136休 勝率.838)

      (1093勝199敗253休 勝率.846)

 横綱成績

  180勝24敗22休勝率.882

      (622勝103敗136休 勝率.858)

      (899勝129敗232休 勝率.875)

70連勝をかけた取組後の2人のコメント

●敗れた双葉山「われいまだ木鶏たりえず」(私はまだ木彫りの鶏のように無心の境地に至っていない。中国の古典『荘子』からの引用)

●一方安藝ノ海が勝った時に、周りや本人、家族が大騒ぎしたことから出羽海親方は「勝って褒められるより、負けて騒がれるような力士になれ」と諭しました。

その後横綱に昇進。「横綱になれたのは、あの一番があったからです」と述懐した一方で、何とかもう一度と挑んだ双葉山には、その後9連敗と二度と勝てませんでした。

 

大相撲の15日制はいつから?

相撲のひと場所の日数をさかのぼると、江戸時代はひと場所10日間が開催されていましたが、徐々に延ばされてきた歴史があります。

相撲の本場所が初めて15日制となったのは、1939年(昭和14年)5月場所ですが、以降10年間は戦争などの影響で、10日制だったり11日制だったり13日制だったりまちまちでした。

定着したのは1949年(昭和24年)5月場所からで、現在に至ります。

大相撲の年6場所制はいつから?

年6場所制になったのは1958年(昭和33年)からです。

上の優勝の表は優勝した年代と番付表。双葉山がどの番付(下記の「法華信仰との出会い」に記載)の時に法華信仰に心の支えを求めていったのかがわかるように時系列に掲載してみました。

双葉山が建立した妙音教会

住所:福岡県筑紫野市二日市北2-16-5

1965年(昭和40年)大相撲の横綱で日本相撲協会理事長も務めた双葉山が現役引退後の理事長時代に住職になる予定で建立するも夢叶わず3年後に死去。

宗派:日蓮宗

本尊:曼荼羅

 

教会名は双葉山が現役時代、約1か月滝行を行った福岡県那珂川市にある「妙音の滝」からきている。

妙音教会

この場所を選んだ理由

①福岡には九州場所が1932年(昭和7年)から始まって以来多くのタニマチがいた

②太宰府天満宮境内の野見宿祢公碑(菅原道真公の先祖で相撲の神様)の近くに戦時中疎開して双葉山相撲錬成道場を開き、この場所はその近くである。

詳細はこのページの最後に掲載のリンク「太宰府天満宮の野見宿祢碑と大横綱双葉山」を参照ください。

③九州場所時に使用する部屋の宿舎用地を探していた。教会の裏には今でも300坪ほどの空き地がある。ここからは以下に述べる岩屋城や高橋紹運公の胴塚が見える。

④教会の前には、1586年「岩屋城の戦い」で薩摩に敗れた高橋紹運公(戦国時代、福岡は豊後大友の領地で太宰府の岩屋城城主で豊後出身の武将)の首塚があり、この地はその時の薩摩軍の本陣跡であった。大友に忠義を貫いた同じ郷里の紹運公に感ずるものがありこの地にしたのかもしれない。

(双葉山は豊後今の大分県宇佐市出身)

 

本堂

堂内には双葉山本人と家族の写真、彼が愛用したパイプや杖があるくらいで、優勝12回、全人未到の69連勝の記録を打ち立てたり、花柳界での大人気とか横綱推挙状や優勝カップ、トロフィーなどの輝かしい記念の品は一切なく、みんな相撲協会に寄付しているとのことで彼の素顔のような爽やかさを感じました。

九識霊断法(くしきれいだんほう)とは

入口の立て看板

日蓮宗において過去と現在の問題点を明らかにし、未来を予知する秘法。 また、未来を予知するだけではなく「改善点」を必ず見つけ運命を好転させることを目的。

法華信仰との出会い

法華信仰との出会いは、角界に入って2年目の1929年(昭和4年)のことである。

1930年(昭和5年)序二段の双葉山は重い脚気に罹り、思うような成績をあげられない状態が続いた。悶々と日々を送るうち、同門の佐賀錦(妙正尼の兄)、に誘われて東京都杉並区にある日蓮宗の妙正寺の妙正尼のもとへと通うようになる。道場で唱題修行を始めると、みるみるうちに脚気は治り、成績も上向いていった。

1939年(昭和14年)の春場所中に妙正尼が危篤に陥った時、横綱双葉山は1日休場して病床にかけつけた。不戦敗を覚悟するほどの恩誼を妙正尼に感じていたのである。(9勝4敗2分)

妙正尼亡き後も法華信仰を持ち、1940年(昭和15年)の夏場所(7勝5敗3分)不振で途中休場したとき、山に篭り滝に打たれながらお題目を唱える行を福岡県那珂川でしている。この修行は滝の近くに住む投埜尼(なげのに。妙正尼の妹に勧められてのものだった。

双葉山が初めて身延山へ詣でたのは1941年(昭和16年この年優勝1回)のことであった。

身延山久遠寺(くおんじ)は山梨県南巨摩郡見延町にある日蓮宗の総本山。

妙正尼と双葉山

佐賀県金立町の金丸トワ師(妙正尼)は19才の時、福岡那珂川の安徳村の金丸家に嫁いだ。 たまたま病気に冒され妙音の滝に参籠。一朝に快癒。信仰心を深めた。

1913年(大正2年)居を東京に移し「法華経」の普及に身を捧げる。 1930年(昭和5年)東京都杉並区和田本町に教会所を開く。その威徳にすがる人々がやってきた。 その中に後の大横綱となった双葉山の姿もあった。1930年(昭和5年)双葉山は幕下時代に難病にかかり、妙正尼の祈祷によりその病を克服。その後69連勝を成し遂げた。 1940年(昭和15年)双葉山は妙音の滝に参籠した。

妙音教会の名の由来「妙音の滝」

所在地:福岡県那珂川市上梶原

境内を流れる川

 

落差9mの妙音の滝

滝の流れは九州新幹線開通のころから少なくなっています。

 

水音が聞こえます。

 

妙音の滝は初め真言宗の祈祷所であったが、1887年(明治20年)日蓮信者の川上勝吉氏が庵を建てて信仰の地としたもの。 初めは博多法性寺の末寺であったが、1928年(昭和3年)以降は那珂川市の蓮教寺の別院となった。 この地は妙正尼が参籠して病を快癒、彼女は後に大横綱双葉山の病も快癒させたという。

妙音教会の歴代住職

双葉山と妻澄子の間には長男経治(1944年生)と長女博子(1948年生)がいたが、1964年博子は中3の16才で病死。その翌年1965年双葉山は妙音教会を建立。双葉山は住職になる予定だったが3年後の1968年に死去、経治が初代住職に就任したものの1988年44才で死去。

経治の3人の子はまだ成年に達していなかったため、その妻は寺を閉じることを考えたが、高校生だった次女が寺を継ぐことを宣言、立正大学で仏教を学び僧侶の資格を取り住職となる。現在妙音教会は次女の弟(経治の長男)が住職となっている。長女は元宝塚花組で活躍。

現在の住職

双葉山の孫(息子経治の長男)

後方の写真は右から双葉山、長男、小さい写真は双葉の妻、長女

 

長男教治を抱いて

花柳界でも大人気

双葉山

 

双葉山は花柳界においても人気が高く、新橋・柳橋の芸者は「双葉関の貞操を守ろう」と「さわらぬ連盟」なるものを作り、互いに牽制し合っていたといわれる。横綱昇進時はまだ独身だったことや、その童顔もあって「童貞横綱」とも呼ばれた。

「教会」とは

明治時代の政府の指導で、宗教団体は寺や神社などの組織や小規模団体などに対し教会講社などを名乗るようにということでした。寺→院→教会は病院→医院→診療所というイメージ。
ここで言う「教会」とはキリスト教とは無関係です。

 

双葉山は入門して2年目の17才のころ重い脚に罹り、これをきっかけに妙正尼と知り合い、24才~27才にかけて69連勝を果たし神のように崇められたことでしょうけど、所詮年令的にはまだまだ未熟でそのギャップを埋めるために妙正尼や投埜尼、日蓮宗にその解を求めたのではないでしょうか。

太宰府天満宮の野見宿祢公碑から老人ホーム双葉そして妙音教会、妙音の滝と訪れ双葉山の心の葛藤、太宰府に対する思い入れあたりが少し理解できたような気がしました。

太宰府天満宮と双葉山

 

お問い合わせ・ガイドの依頼はコチラから
fukuda0917@yahoo.ne.jp

塾長より

いつも記事をお読みいただきありがとうございます。
もしよろしければ記事の一番下にある「コメントを残す」より
コメントを書いていただけますと、記事を書く励みになります。

これからも太宰府の魅力をお伝えしていきますので
応援よろしくお願いします。