こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

高橋紹運とは

高橋 紹運は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。

豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理(あきただ)の子で、柳川藩主立花宗茂の実父。

紹運は法名で、初めは吉弘 鎮種(しげたね)、のちに大友宗麟の命で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種と称す。

岩屋城とは

太宰府四王寺山中腹にあった岩屋城は築城年代は定かではないが天文年間(1532年~1555年)に高橋鑑種(あきたね)によって築かれたと云われています。

1586年薩摩の島津軍が北上してくると、岩屋城には高橋紹運、宝満城築城には紹運の次男で筑紫広門(鳥栖勝尾城城主)の娘婿である高橋統増(むねます)が筑紫氏の家臣ともに籠城。

岩屋城では壮絶な戦いの末に、高橋紹運以下籠城兵763人がことごとく討死。

その後、秀吉の援軍が九州に来襲した報を受けた島津氏は城を秋月氏に預けたが、立花山城の立花宗茂によって奪いかえされ、天正15年(1587年)破却。

 

 

岩屋城は四王寺山の右端の尖ったところ

 

岩屋城跡

 

 

 

岩屋城跡からの太宰府市内

大宰府政庁跡が見えます。

 

左に九州国立博物館が見えます。

 

左は宝満山、遠くの三角形は大根地山

 

久留米の未納連山、基山、天拝山、九千部山、背振山、可也山、博多湾などが見えます。

背振山

高橋紹運の胴塚

岩屋城跡から林道に戻り少し進み左へ下った二の丸跡に紹運の胴塚と戦没者の碑があります。死に物狂いで戦った城兵と共に大長刀を振るって奮戦した紹運は、高櫓に上って切腹。
紹運の首は首実検の後、島津軍の本陣近くの般若寺近くに埋葬されたので、ここには胴だけが埋葬されています。

 

岩屋城戦没者之碑

 

紹運の辞世の句

焼米ケ原の入り口にあります。

「流れての 末の世遠く 埋もれぬ 名をや 岩屋の 苔の下水」

時が過ぎて先の世になれば、岩屋の苔の下を流れる水のように我が名も埋もれてしまうだろうか。

高橋紹運の首塚

高橋紹運は薩摩島津氏の攻撃を受け敗死。この首塚がある地は、島津氏の本陣付近にあたり、紹運の首は実検じっけんが行われた後、この地に埋められたとされています。

西鉄二日市駅と日本経済大学の中間くらいのところにあります。

 

般若寺跡

岩屋城の戦いの際、島津軍が本陣を置いたという般若寺跡。

高橋紹運の首塚近くにあります。

小高いここの丘から岩屋城が見えます。

 

岩屋山 西正寺

高橋紹運の菩提寺

浄土真宗本願寺派の寺

1586年7月27日、高橋紹運以下763名が島津軍と戦い、全員討死しました。高橋紹運の老臣藤内左右衛門丞重勝は、現西正寺の場所に草庵を構え、岩屋城戦没者の菩提を弔いました。藤内左右衛門丞重勝は、出家して正順と号し、西正寺開基となりました。 現西正寺住職は、19代山内真隆(釋真隆)。山内の姓は、藤内を変姓したものと思われます。

山門

高橋 紹運,菩提寺,

 

「岩屋城主 高橋紹運公並勇士菩提寺」の石碑

本堂

 

阿弥陀如来(浄土真宗のご本尊)を中心に

 

右は親鸞聖人(浄土真宗の宗祖)

 

左は蓮如上人(八代門主 浄土真宗の中興の祖)

 

参考までに中央が阿弥陀如来、右が親鸞聖人、左が蓮如上人です。

 

襖絵

 

扁額の書は宮小路康文

宮小路康文(1800 〜 1899 )は江戸時代から明治にかけての書家で、比叡山で天台を修め、権大僧正となって筑前太宰府へ。空海の書法を究めた名筆家として知られています。

平安神宮応天門の扁額や国会議事堂の扁額などの作品が有名だそうです。

 

高橋紹運公が藤内左右衛門丞重勝に授けたという念持仏と群雀の玉。

念持仏(法蔵菩薩像)

源信作(七高僧の一人)

両側から拝めるように裏表に扉があります。

高さは30cm位で片膝立ての姿は非常に珍しいそうです。

 

 

西正寺では今でも落城した7月27日の祥月命日には法要が営まれています。

その時には上記の念持仏群雀の玉が開示されるそうです。

 

 

演劇「新・岩屋城の戦い」

史跡のまちの”生”ドラマVol3  原作:白梅悍馬

・日時:2019年2月17日(日)

・会場プラム・カルコア(太宰府市中央公民館)

【あらすじ】

時は西暦1585年、九州は太宰府、四王寺山に『岩屋城』という城がありました。 城主は稀代の名将“高橋紹運” 当時には珍しく義を重んじ、忠節を尽くす義将でした。

対して紹運と刃を交えること数度、接近と離反を繰り返し、戦国の世を巧みに生き延びた武将“筑紫広門” (鳥栖 勝尾城城主)その気性の荒さから、肥前の悍馬と評される謀将でした。 互いに刃を交え、反目しあう二人の将は、やがて来る大敵と戦うため手を取り合いました。互いの勝ちを得る為に。 別々の生き様を見せる両将が手を取り、戦って散った福岡県太宰府市の合戦『岩屋城の戦い』を通して、生きるとはなにかを訴えかけています。

 

西正寺では今でも落城した7月27日の祥月命日には法要が営まれています。

演劇「新・岩屋城の戦い」は戦国時代、義を重んじ忠節を尽くした高橋紹運と家名・家系を守るため接近と離反を繰り返し明治まで生き延びた筑紫広門(鳥栖勝尾城城主)の対照的な生き方をした二人の生きざまも非常に興味が沸きます。

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