【二日市の正行寺】枯山水の石庭
宗派:浄土真宗東本願寺派
住所:福岡県筑紫野市二日市中央4-7-1
正行寺は戦国時代の1593年に創建された寺院。代々住職を務める竹原氏は肥後国阿蘇家一族の武将の出で、戦国時代に薩摩島津家に敗れ、敗走した先の二日市のこの地で出家。福岡県で一番古い酒蔵「大賀酒造」による土地の寄進により創建。大賀家は以来、代々門徒総代として正行寺を支えています。
太宰府天満宮の秋の大祭に、太宰府天満宮より榎寺まで神輿の牛車を牽く牛は、昔から大賀家の黒牛と決まっていました。
大賀家は他にも太宰府の戒壇院等の古いお寺にも仏物を寄進しています。
本堂に向って左手には三重塔があり、そのまわりは岩や砂をベースとした庭園があり、 三重塔をはじめ古井戸や鐘楼などが配置され、砂はきれいに掃き清められています。
正行寺枯山水の石庭
長野県を代表する作庭家 小口基實による枯山水の石庭。
本堂前を流れる鷺田川
二日市八幡宮
住所:筑紫野市二日市中央3-6-35
福岡藩二代藩主黒田忠之建立
祭神:玉依姫、神功皇后、応神天皇
御神木の公孫樹
紫野市天然記念物
天正14年(1586年)島津義久の率いる薩摩勢は高橋紹運が守る岩屋城を攻め落とし、その帰りにこの公孫樹を伐り倒そうとしました。このとき長百姓惣左衛門の妻とやまだ家の老婆が駆け付け老婆が「これは当所の氏神八幡宮の神木なり、たちまち御罰を蒙るべし」といい、そのまま木に抱きつき「この木を伐り申さば先ずこの姥を伐り、それよりこの木を伐り候え」と言い放ったところ、切り倒そうとした者たちは、その勢いに恐れたのか、斧を棄てて立ち去ったといわれています。
これよりこのご神木の公孫樹は「厄除けの銀杏」といわれています。(筑紫野教育委員会)
薩摩にまつわる正行寺と御神木の公孫樹
1582年織田信長本能寺の変により自害
以後豊臣秀吉は全国制覇を目指す、一方薩摩も全国制覇を目指し北上開始。
薩摩軍は肥後を攻め(この時、肥後国阿蘇家一族の竹原氏は薩摩軍に敗れ、敗走した先の二日市で正行寺を創建)筑後を攻め、さらに北上し
1586年太宰府の高橋紹運の岩屋城を攻め落とし、
さらに博多の立花城を攻めるも南下して来た豊臣勢により薩摩軍は敗退(この時老婆、二日市八幡宮の公孫樹を守る)。
なお、福岡で薬局を展開しているこちらも筑紫野市が創業地の「大賀薬局」とは特に姻戚関係はないそうです。
正行寺はこれほど立派なお寺にも関わらず訪れる人がほとんどいない中、先日は外国の女性(中国、ウクライナ?)だけが10人ほど訪れて写真を撮っていました。
正行寺のマップ、二日市八幡宮は正行寺の下の方にあります。
塾長より
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先日、正行寺の前を通ってたら本堂の前で男女20人位のダンスチームが練習をしていました。驚きましたが次はゆっくり見学させて頂きます。
ひ−さんコメントありがとうございます。お寺とダンスめずらしい取り合わせで意外と合うかもしれませんね。
いつも普通に前を通ってたのに、歴史があるのですね。
くみ子さんコメントありがとうございます。意外と近くのものでも言われてみて気づくものってありますよね。
以前、二日市近辺に住んでいた頃から、正行寺は立派なお寺だなあとずっと思っていました。由来がやっとわかりました。
近くまで行ったら、訪ねてみようと思います。
すみれさんコメントありがとうございます。近くにいても意外と行かなくて遠くに離れて行ったりしますよね。
その土地土地に深い歴史がありますね。歴史を知ると面白い!
そして歴史から学ぶことが一番大事です。
愚かな破壊行為を何故するのでしょう。何処かで争いがあってますね。
人間が存在する限り争いは無くならないのかな~?
宇宙空間の中で芥子粒程もない人生なのに、、。
平和に生きれたらいいのに。
ヒマドンナさんコメントありがとうございます。
おっしゃる通り残念ながら人間が存在する限り争いはなくならないのでしょうね。
福田塾長さん
「正行寺」については、聞いたことも行ったこともありませんでしたが、
つい先日、熊本勤務当時の先輩の先生の御葬儀が正行寺で執り行われたと言うことを知りました。知っていたら参列するはずでしたが、その先生は、正行寺にお住まいだったと言うことを知り、是非御参りしなければと思っています。
偶然ではありますが、不思議な御縁のような気がしました。
Storchさん正行寺とはそういうご縁があったのですね。
今度太宰府お越しの節は二日市駅かかも近いのでご一緒したいですね。