こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。
先日太宰府四王寺山の岩屋城跡に行って来ました。
四王寺麓の秋の森を抜けて。
高橋紹運公の胴塚は登り切った左手すぐ。
高橋紹運公の胴塚
岩屋城戦没者の碑
ここから岩屋城跡へ2~30m
岩屋城跡(281m)
桜がちょうど満開でした。
左手に九州国立博物館
眼下に太宰府政庁跡
左から右へ目を向けていくと
宝満山~大根地山
基山
九千部山
背振山
右遠方に可也山
家から往復約2時間の手ごろなコースです。
今日は新緑が目に染みるほどの鮮やかさで、お城跡は桜も見事に満開でした。
眺めは眼下に太宰府市街や九州国立博物館、太宰府政庁跡が、遠くには東から宝満山、大根地山、南には久留米方面の未納連山、西には基山、九千部山、背振山から可也山まで一望できすばらしい景色を満喫できました。
碑前では往時の高橋紹運公に思いを馳せた一日になりました。
塾長より
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近くに眺めのいい山がありますね、コロナ騒ぎの時塾長の遠隔講義は楽しいです、よく言われてるように、夢まぼろしか人の世は、とか、兵どもが夢の跡、が浮かんできます、高橋紹運はまれに見る崇高な精神の持ち主だったそうですね、秀吉にも敵方の島津にもその死を惜しまれたとか。ありがとうございました。
若宮征之助さんコメントありがとうございます。お詳しいですね!義を貫いた父紹運の姿を見て育った息子高橋宗茂(後の立花宗茂)も名将になったのかもしれませんね。
立花道雪の養子となった宗茂は関ヶ原の戦いで西軍につき家康から最も恐れられていた武将であり家康は「宗茂がこの戦場に戻って来る前に決着をつけねばならぬ」と云ったとあります。その後、西軍に付いたとして宗茂は改易されますが名将を認めている家康(将軍家)は田中吉政が秀吉から領地としていた柳川藩を宗茂に与えることになりました。全国でも珍しい由緒ある旧大名家として今でも繁栄していますね。柳川市立花家の「お花」を落ち着いて訪問したいです。
ひ−さん解説ありがとうございます。家康にまで名将と言わせるとは我が地元だけでなく日本歴史上の誇りです。
関ヶ原の後、田中吉政公が地元近江から久留米、柳川32万石の領地を得ましたので太宰府水城を通り久留米に行ったことで水城の道を「田中道」と呼ばれています。歴史は岩屋城~関ヶ原~近江~太宰府~久留米・柳川と繋がっていますね。私の同期生が田中吉政公の弟の田中清正公(後の久留米赤司城主)の直系です。世の中狭いですね。ご参考まで。
うっちやんありがとうございます。
歴史は繋がっていてまたうっちゃんは顔がひろいですね!
こんばんは🌙😃❗
新しい年になり、久々に大宰府政庁跡発掘資料や、大宰府の歴史を勉強中。
今日は、ちょうど立花城や、若武者、立花宗茂公の活躍を読み、岩屋城の写真を探していました。ら、塾長さまの記事に出会いました。m(._.)m
弱い脚でもなんとか数回岩屋城跡まで行き、激戦の跡を、偲びました。いつまでも、
心に残る場所です。
たくさんのお写真ありがとうございます。
アクロス福岡での2/5復活の大名、立花宗茂公の生涯に、1/4からの受付でしたので、電話しましたが。1/1にネット受付で満席❗💢と、言われて残念です。愚痴になりますが。市政たよりに書いてない日に、締切とは、どこに
抗議したら良いのでしょうね。
きっとコロナで中止になるかもです。
スマホ検索でいろいろ読みました。
時々、また、拝見させてくださいませ。
福岡市の啓子さんブログご覧いただきありがとうございます。
また時々見てください。