こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

血筋が太宰府の高官から菊池一族へさらに西郷隆盛への繋がりをアップしてもう4〜5年経つので追加修正しようと思いながらこの夏やっと念願叶いました。

肥後菊池一族の初代則隆は太宰府の高官だった!

1070年 太宰府の少監藤原則隆(父政則は太宰少弐)は太宰府領の赤星荘(荘園)の荘官(代官)として菊池に来て初代菊池則隆と名乗る。生1029年~没1101年3月15日 72才。

→菊池家 2代目経隆(初代則隆の三男)本城菊之城(居宅 菊池氏初期における本拠地) を築く。15代が武光で16代武政が菊池城築城。

初代則隆の長男政隆の子孫に西郷隆盛がいます。以下を参照ください)

 

1348年 15代武光の時、懐良親王(後醍醐天皇の皇子)九州平定のため征西将軍として菊池に入る。

1359年 福岡県筑後川を挟んで15代武光を大将とする南朝方(後醍醐天皇)と太宰の少弐氏を中心とする北朝方(光明天皇)との間で合戦が繰り広げられ、南朝方が優勢のうちに戦いは終結・・・筑後川の戦い(関ヶ原の戦い、川中島の戦いとともに日本三大合戦の一つとされている)

福岡朝倉の大刀洗という地名の由来は武光が大刀洗川で刀についた血のりを洗ったことに因む。

1361年 懐良親王、太宰府に征西府(九州における南朝方の本拠)を置く(全盛時代)

1367年 16代武政 菊池城(守山城ともいう)を築く

1368年 懐良親王、武光らと都を目指し出航するが失敗

1520年 24代武包、大友に追われて菊池を去る

初代菊池則隆

地元の土豪が太宰府長官職にある藤原氏に仕えることによってその姓を賜ったという見方もある。

菊池の姓も以前から名乗っていたとも考えられ、この初代がどこからやってきたのかも不明。

菊池神社

1870年(明治3年)菊池一族が本拠地として菊池本城のあった場所に建てられた神社で12代武時、13代武重、15代武光が主祭神として祀られ、16代武政以下一族26名も祀られています。

所在地:菊池市隈府1257

 

15代菊池武光像

菊池神社近くの市民広場

生誕700周年

 

菊池神社

 

本殿前

 

神門

 

菊池神社境内の紅葉

 

12代菊池武時公

 

12代菊池武時は後醍醐天皇の勅命により博多の九州探題の北条英時を攻め1333年(元弘3年)3月13日壮烈な討死。建武の新政のさきがけとなる。

 

PS1 福岡市七隈の菊池神社と六本松の菊池霊社

志津掃部頭さんのコメントを参考に追加。

 

 

古くは白村江の戦い後、太宰府防衛の兵站基地として鞠智城を築き、また菊池一族の祖先は太宰府の高官藤原則隆が菊池赤星荘園の荘官として赴任してきて初代菊池則隆と名乗ったことなど菊池は太宰府と非常に緊密な関係にあったようです。

その理由の一つは米どころであったこと

菊池川沿いの米は江戸時代にも「天下第一の米」とよばれるほど大変評判で、今でも全国で最高位の評価「特A」受賞を続ける日本有数の米どころであったこと。

二つは米を中心に物資の輸送は菊池川で

菊池川は阿蘇外輪山を水源として~菊池渓谷~菊池市街~山鹿市街~有明海~大阪堂島へ。

などが主な理由ではないかと考えられます。

PS2 菊池家系図

以下うっちゃんより

「私が以前、保有していた菊池家系図です。
武光も詳しく記してあります。多々良が浜合戦の事もです。写真が全てです。今は千葉の菊池家縁の所に差し上げました。長さが6m程ありました」。

全部で15枚に亘りますけど紙面の関係で3枚だけ掲載し、もしすべてを見たい方がおられましたら申し出てください。掲載します。

 

以下の12枚は下記の11番目のめぐみさんのコメントにありますようにうっちゃんからの結婚お祝いに送ってきました。

 

先祖に「隆盛」の名前があります。

 

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