こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

先日菊池一族を祀っている菊池神社に行ってきました。

菊池一族

1070年 太宰府の高官藤原則隆(菊池氏初代菊池則隆を名乗る)菊池に来る。

→菊池家 2代経隆(初代則隆の三男)本城菊之城(居宅 菊池氏初期における本拠地) を築く→15代武光→16代武政(菊池城築城)。

(長男政隆については次回ブログ「西郷隆盛の祖先の地は菊池」で説明します。

1348年 15代武光の時、懐良親王(後醍醐天皇の皇子)九州平定のため征西将軍として菊池に入る。

1359年 福岡県筑後川を挟んで15代武光を大将とする南朝方(後醍醐天皇)と太宰の少弐氏を中心とする北朝方(光明天皇)との間で合戦が繰り広げられ、南朝方が優勢のうちに戦いは終結・・・筑後川の戦い(関ヶ原の戦い、川中島の戦いとともに日本三大合戦の一つとされている)

福岡朝倉の大刀洗という地名の由来は武光が大刀洗川で刀についた血のりを洗ったことに因む。

1361年 懐良親王、太宰府に征西府(九州における南朝方の本拠)を置く(全盛時代)

1367年 16代武政 菊池城(守山城ともいう)を築く

1368年 懐良親王、武光らと都を目指し出航するが失敗

1520年24代武包、大友に追われて菊池を去る

 

菊池神社

明治3年1870年、菊池一族が本拠地として菊池本城のあった場所に建てられた神社で12代武時、13代武重、15代武光が主祭神として祀られ、16代武政以下一族26名が配祀されています。

 

住所:菊池市隈府1257

15代菊池武光像

菊池神社下の市民広場

生誕700周年

 

2019.11.28

菊池神社境内の紅葉

 

本殿前

 

 

神門

 

 

菊池神社

 

本殿

 

12代菊池武時公

 

12代菊池武時は後醍醐天皇の勅命により博多の九州探題の北条英時を攻め1333年元弘3年3月13日壮烈な討死に遂げ建武の新政さきがけとなられた。

 

PS1 福岡市七隈の菊池神社と六本松の菊池霊社

志津掃部頭さんのコメントを参考に追加しました。

 

初代菊池則隆

藤原則隆は1070年、大宰府天満宮領の赤星荘(荘園)の荘官として菊池に来て初代菊池則隆と名乗る。生没年不詳。

地元の土豪が大宰府長官職にある藤原氏に仕えることによってその姓を賜ったという見方が一般的。

菊池の姓も以前から名乗っていたと考えられる。この初代がどこからやってきたのかも不明。

 

PS2 菊池家系図

以下C氏より

私が以前、保有していた菊池家系図です。
武光も詳しく記してあります。多々良が浜合戦の事もです。写真が全てです。今は千葉の菊池家縁の所に差し上げました。長さが6m程ありました。

全部で15枚に亘りますけど紙面の関係で3枚だけ掲載し、もしすべてを見たい方がおられましたら申し出てください。掲載します。

 

 

 

 

古くは白村江の戦い後大宰府防衛の兵站基地として鞠智城を築き、また菊池一族の祖先は大宰府の高官藤原則隆が菊池赤星荘園の荘官として赴任してきて初代菊池則隆と名乗ったことなど菊池は大宰府と非常に緊密な関係にあったようです。

理由の一つ目は米どころであったこと

菊池川沿いの米は江戸時代にも「天下第一の米」とよばれるほど大変評判で、今でも全国で最高位の評価「特A」受賞を続ける日本有数の米どころであったこと。

二つ目は米を中心に物資の輸送は菊池川で

菊池川は阿蘇外輪山を水源として~菊池渓谷~菊池市街~山鹿市街~有明海~大阪堂島へ。

などが主な理由ではないかと考えられます。

今回の訪問で初めて知りとても勉強になりました。




塾長より

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