こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

対馬旅行 パートⅢ 清水山城、万松院、金石城、お船江跡に行ってきました。

 

清水山城跡

文禄慶長の役(朝鮮出兵)に際し、秀吉の命により1591年に築かれた山城です。

本営である肥前・名護屋城(唐津市)と朝鮮半島の釜山を結ぶ輸送・連絡の中間点として、秀吉の命により国境の島・対馬に築かれたのです。

車で行きましたけど途中で道が狭くなりあきらめました。

 

 

 

いりやきそば

いりやきとは古くから伝わる郷土料理で寄せ鍋の一種。地鶏または鮮魚のどちらかをメインにたっぷりの野菜を煮込んで味わいます。もともと材料の鶏肉(魚)を椿油で炒ってから料理していたため「いりやき」と名付けられたという説があります。

 

 

 

万松院

対馬藩主宗家の菩提寺で1615年初代藩主宗義智(法号 万松院、宗家19代)を弔うために創建されました。

本堂には朝鮮王国から贈られたとされる三具足や徳川歴代将軍の位牌が置かれています。

 

朝鮮王国から贈られたとされる三具足(写真提供うっちゃん)

 

 

 

山門

桃山式1615年建造

 

万松院本堂

 

諫鼓(かんこ)

領主に対し諫言しようとする時打ち鳴らす鼓。

「諫鼓鳥」とは諫鼓の上に鳥が遊ぶ→諫鼓を用いる必要がない→共に領主が善政を施すのを言う。

転じて

閑古鳥が鳴く・・人が集まらずものさびしい様子。

 

 

 

 

天台宗

入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられました。

 

本尊

 

徳川歴代将軍の位牌

 

 

百雁木(ひゃくがんぎ)

 

154段ありました。

なだらかなのでシニアも登れます。

 

樹齢1200年の大杉(県指定天然記念物)

 

宗家歴代藩主の墓所

初代藩主 宗義智 万松院の墓

 

福岡黒田藩主の墓と全く同じ形でした。

 

金石城跡

 

1528年に宗将盛(14代)によって金石館(屋形)が建てられ1669年宗義真が櫓を築いて金石城と呼ぶようになりました。

 

対馬藩お船江跡

 

 

 

対馬藩お船江跡(日本遺産認定)

久田浦に注ぐ久田川河口に5基の船着場がある対馬藩のお船屋の跡。現在の遺構は1663年の造成といわれています。

築堤の石積みは当時の原形を保っています。正門、倉庫、藩主休息の建造物が残っており、往時の壮大な規模をうかがうことができます。

 

 

 

 

 

イカの一夜干し

ブンブン廻っています。

 

お名残おしんで対馬を後に。

 

帰路壱岐での夕日。

 

壱岐港

 

 

帰りはフェリ-

15:30~20:15(4時間45分)約4,000円でした。

 

対馬

人口約3万人

対馬は南北の距離 約80km

博多~対馬間(約140km)

博多~約70km~壱岐~約70km~対馬~約50km~釜山

 

博多~対馬間:所要時間と料金

①フェリ-

4時間45分、約4,000円(帰り)

②高速フェリ-

2時間15分、約7,000円(行き)

③飛行機

約30分、約14,000円

 

対馬には今も数多くの戦跡が残っています。

江戸時代には日本を代表して交渉する窓口の証として万松院に徳川家15代の位牌が安置されています。

対馬は古くは663年の白村江の戦い、鎌倉時代の元寇の戦い、明治時代の日清戦争、日露戦争、昭和の太平洋戦争などにおいて重要 な軍事拠点としての役割を果たしてきました。

太平洋戦争においては、中国大陸や朝鮮半島に近く位置し、海路の要所である東シナ海や対馬海峡に面していることから対馬、壱岐、 五島などの離島、西彼半島には外洋に向けた砲台が数多く設置されました。

対馬には31カ所もの砲台跡が今も残っています。

今回のパートⅢで対馬旅行のブログは終了です。ご愛読ありがとうございました。

対馬には金田城が訪問目的でしたけど振り返りますと歴史の重みを感じた旅行でした。

日本の最前線基地として幾度となく戦争に関わった対馬にわたしたちは思いを馳せ、感謝の気持ちを捧げると同時に今後人口減少で島自体の存亡が危ぶまれてくる可能性もある対馬を忘れることなく出来ることはなんでも応援していかなければならないと強く思った貴重な旅でした。

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塾長より

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