こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。
【対馬旅行】 万関、石屋根、元寇古戦場跡、上見坂公園。シリーズ2。
万関
明治33年、日露戦争時日本海海戦に備え日本海軍が艦船の通り道として堀切られた瀬戸は交通の要所として現在橋が架けられています。
この日露戦争を機に万関の瀬戸を掘削したことにより現在の上対馬と下対馬に分かれ以下の万関橋を架けました。
万関橋
港で地元の人としばし歓談
アナゴ漁の餌の冷凍イカ
アナゴ漁の仕掛け
対馬の石屋根
今では数戸を残すのみとなった石屋根は対馬で産出される板状の頁岩(けつがん)で屋根を葺いた高床式の建物で倉庫として使用されています。日本ではここだけに見られる珍しい建築物です。
火災から食糧や貴重品をまもるため母屋から離して建てられています。
厚みもあり相当な重さになるので潰れたときのことを考えてか母屋には石屋根は使ってなく倉庫だけに使用されています。
海風の強いこの地方の生活の知恵で風に飛ばされないようにしたものと思われます。
対州馬
小型の対州馬は数少ない日本在来馬の一種。小型でありながら力が強く、蹄も丈夫で荷物を背負っての登坂力は抜群。性格も温和で農家の一員として島の人々に愛されてきました。明治時代には約400頭も飼われていましたが現在は約40頭ほどとツシマヤマネコよりも数が少なく大変貴重な存在です。
対馬グランドホテル
右から2人目は当ホテルの社長です。
ホテルの社員教育は行き届きみなさんとても親切で快適に過ごすことができました。
さすが対馬第一のホテルだと思いました。
漁火
漁火は以前は水平線にびっしり一列になるほどだったそうですけど最近は後継者不足や魚群の減少により少なくなったそうです。
翌日の日の出
朝食
元寇の役古戦場跡(佐須浦)
小茂田浜神社
文永11年(1274年)弘安4年(1281年)と二度にわたる蒙古襲来(元寇)で対馬・壱岐は、酸鼻を極める惨状を呈していたといわれています。
文永11年10月5日、蒙古元帥忽敦は兵3万、軍船900艘で対馬西海岸一帯を侵略しました。各地で激しい戦いがあり、宗家の一族がそれぞれの任地で討死にしています。守護代宗助国は自ら親兵80騎を従えて、府中から佐須に討って出この地小茂田の海岸に近い「ひじきだん」に陣を備えたといわれています。
文永11年(1274年)10月6日午前4時頃戦いは始まり、助国らは奮戦したが午前9時頃乱軍の中に武将たちは戦没しました。
元寇奮戦図
元寇の古戦場(佐須湾)
白岳
日本系と大陸系植物が混生する原始林の頂上に石英斑岩が顔を出す霊山
上見坂展望台
標高385mの展望台から日本の代表的溺れ谷・浅茅湾(あそうわん)が箱庭のように眼下に広がり、遠く九州本土や韓国の山々が見える国境の島対馬ならではの眺望です。
兵舎跡
明治後期(日露戦争)に兵舎として建てられ砲を砲台に据えたときは砲発射要員、雑役炊事兵の百人程度の仮眠所に使われました。
また平時は火砲四門が格納できるようになっており砲を雨ざらしにしないようにここに移されました。
第二次大戦中は演習用兵舎に使われ戦後は国際無線用動力発電機が置かれていました。
壁の厚さにご注目ください。
上見坂展望台で兵舎跡など見た帰りの山道で鹿の親子に偶然遭遇。一瞬顔見合わせ「ん!ここはわたしたちの縄張りよ!」という顔をして逃げて行きました。
観光客
対馬には年間41万人の韓国人観光客が訪れていて対馬の観光客の80%を占めていました。
韓国人の対馬観光目的は
①免税店での買い物
②釣り
③トレッキング(オルレ)
11月6日、長崎新聞報道によると韓国への輸出規制が始まって以来、対馬を訪れる韓国人の団体観光客が大幅に減少し全体の観光客数は80~90%以上の減と見ています。
一方対馬にとっては、多数の観光客で経済が潤う部分もあったわけですけど、韓国人観光客のマナーがひどかったので今は元の静けさがもどりよかったとの意見もあるそうです。
対馬との各航路
・福岡とは空・海路
・長崎とは空路のみ
・韓国とは海路のみ
・他の諸国とは空・海路なし
観光客増加策として国内外からの観光客の誘致に力を入れ始めているけれども上記のように他の諸国とは空路・海路がなくすぐの回復は望めないので先ず国内観光客の誘致に力を入れるそうです。
また韓国人の観光客増加により韓国企業による対馬への飲食関係やホテルが数多く進出しているけれども韓国人観光客の減少で苦戦してるようです。
旅行中観光客自体はまばらで韓国からの観光客はほとんど見かけませんでした。
経済面を含め対馬だけに限らず日本に及ぼす影響も大きいので早期の日韓関係の改善を祈念します。
▶fukuda0917@yahoo.ne.jp
塾長より
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良くまとめられたレポートだと拝見しました。対馬の歴史は以下のように深く長いです。①七世紀に日本が白村江の戦いに敗れ大陸からの仕返しを恐れ金田城を構築②12世紀に宗家が対馬に入り阿比留一族を滅ぼして幕末まで対馬国主となる③13世紀に蒙古が対馬を襲う④朝鮮通信使を対馬藩が江戸末期まで担う⑤日露戦争に入り対馬海峡でバルチック艦隊を迎え海戦勝利する⑥それ以降、対馬全島が要塞化となる⑦対馬が福岡県編入を願うも長崎県が拒否し今に続く⑧博多~、小倉~フェリーが就航する⑨福岡、長崎空路が開設される⑩小倉フェリーが廃止される⑪韓国との海路が始まる。など対馬の歴史流れを簡単に記しました。日本が韓国を編入したとき対馬島民は自由に韓国に出入りしていました。現在は韓国からの観光客が激減して旅館従業員を解雇せざるを得ない状況になっています。対馬に遊びに行って下さいませ。
うっちゃんコメントありがとうございます!
対馬は日本の最先端に位置してますので日本の全ての戦争に関わってるようですね。対馬史をわかりやすく説明いただきありがとうございます。
いつもながらの情報収集力そしてまとまった文章素晴らしいです。夕日大好き良いアングルです。最高!
匿名さんコメントありがとうございます。お誉めいただき感謝してます。
夕日のアングルとてもいいですよね。これはStorchさん撮影なんです。
お疲れ様です。懐かしい万関の橋相変わらず絶景ですね。石屋ね、対州馬、どれもこれも思いで深いものばかりです。有難うございました。
かやさんコメントありがとうございます。
万関橋もすばらしいですけど、日露戦争のために瀬戸を切り拓くとう発想もすばらしいですね。
福田塾長さんへ
対馬探訪の旅では、お世話になりました。
いままで、砲台と堡塁の区別が頭の中で判然としていませんでした。今回、上見坂堡塁跡を見て回って形態状況が分かってきました。同行して対馬まで行ったかいがありました。
誘って頂きありがとうございました。
多々良浜のご隠居さん今回はご一緒の楽しい旅をありがとうございました。
やはり現地を訪れ現物を見ることが一番の勉強になりますね。今後ともよろしくお願いします。