こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。
定遠館
1894年 明治27年の日清戦争後、太宰府天満宮の神職であり衆議院議員でもあった小野隆助は、清国の旗艦「定遠」(艦隊の司令長官が乗っている軍艦)の引き揚げを大本営宛に求め、1896年にその許可が降りました。およそ1年をかけて引き揚げた小野隆助は、自邸内に定遠の部材を用いて記念の館を建てました。
定遠館
一時期、地元の民間会社の所有物になっていましたが、太宰府天満宮が買い取り、以後、職員住宅としても使用されていました。
ボートのオールが縁側の下の部材と使用されていたり、玄関口には装飾品として使用されているものもあります。また、駐車場の門扉は定遠の装甲鉄板を使っており、海戦時の砲弾が炸裂した痕が残ったままとなっています。
入口の門扉は砲弾で炸裂した痕が残っている装甲板を使用。
飾りは中国風の模様
椅子の飾り
屋根裏の梁は定遠の帆柱を使用
救命ボートのオールを使用
内部にはキャプテン室のドアーやデッキなど数多くの部材が使用されています。
当時敵国の船を引き揚げまたその部材を使って館を建てるという小野隆助の目的は何だったんだろかと不思議に思います。
小野隆助の引揚げの目的は
浦辺登著「太宰府天満宮の定遠館」P159
「引揚品が旧福岡藩出身者によって献納されたとなれば、維新のバスに乗り遅れた汚名を大きく挽回し、明治天皇に強くその忠誠を訴求できる絶好の機会到来と考えても不思議ではありません。陸・海軍にも、政府にも影響力を持たない福岡藩閥関係者の中において、衆議院議員を歴任したのちには香川県知事にも任命されている小野隆介ほど引揚げの申請者として最適任の人物はいなかったのではと思います」と記しておられます。
やはり小野隆助の目的は明治維新の動きから見ていかないと理解できませんね。
浦辺氏の考察はさすがだと思いました。ありがとうございました。
2019.8.25手元の資料を見ていたら読売新聞のコピーで「維新秘話㉝、㉞」が出てきてその文・写真は上記浦辺登氏で「歴史作家」と紹介してありました。
こういう方に以下のようにコメントいただき感激と同時に責任の重さを感じたことでした。
塾長より
いつも記事をお読みいただきありがとうございます。
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縁の下の部材にボートのボールが使われているとは知りませんでした。次回行くのが楽しみです。でも皆さん知らい人が多いのではないでしょうか?有り難うございました。
匿名さんコメントありがとうございました。
梁は帆柱でまた内部にはキャプテン室のドアやデッキなど船の部材がたくさん使ってあります。
外部は外から見れますけど、内部は一般公開していません。
毎年、2月の旧正月のころ、大伴旅人に思いを馳せ、仲間と「梅花の宴」を催しております。梅を眺めて和歌を詠み、酒を楽しむという古の故事にちなんだ行事です。その折に、天満宮境内のあまり人に知られていない場所を巡っておりますが、この定遠館もそのひとつです。
NAさんコメントありがとうございました。
なかなか風情のあることされてますね。機会ありましたらお話し聞かせていただきたいと思います。
こんにちは。
定遠館は、改装が始まった頃と改装後、そして先日久しぶりに訪れました。
いつも外から見学していましたが、こちらの記事で内部にも艦の部材が使用されていると伺い、内部も公開していただけたら…と思いました。
ところで、屋根裏の梁の先の、輪っかがついたようなものも部材でしょうか。
匿名さんコメントありがとうございました。
輪っかは帆柱のてっぺんで帆をくくりつけるロ−ブを通す輪っかです。
内部は公開してもらえるといいんですけど非公開でたまたま見せてもらいました。写真は非公開条件で撮らせてもらいました。
PS
写真は非公開条件で→内部の写真は非公開条件で。
屋根裏の梁の先の輪っかがついたようなものは、帆柱の先でしたか…!
早々にお返事をいただき、どうもありがとうございました。
こんにちは。
十数年前まで、昭和の歴史博物館が入居していまささた。僕も行った事ありますが、レコード、ジュークボックス、ポスター、ブリキのおもちゃ、看板(大村崑、三宅クニコ、松山?)、その他懐かしいものばかりでした。現在は、豊後大野市に移転しましたけど。
ansett747さんコメントありがとうございました。そうだったんですか。それも懐かしくよかったですね。大野町なら国東の昭和の町とは違いますね。
こんばんは。昭和の街です。
改修工事の際、オールは大工さんたちが切り刻んで捨ててしまいました。
今、あるのは、後付けのものです。
世界に一つしか遺っていない貴重な史跡だったのですが、実にもったいない事をされたものと思います。アニメの宮崎駿さんも関心を抱かれている「定遠」だけに、宮崎さんに見ていただきたかったですね。
内部の写真については、昭和の品々が展示されている時に撮影したものがありますので、私は、公開しております。非公開などという条件は何もありませんでしたので。黄海海戦時の火災での梁も遺っていましたが、現在、それがどうなっているのか、気にはなります。
渡辺登さんコメントありがとうございました。詳しいですね!
オ−ルはそういうことだったんですね。当時は価値がわらかなかったのかもしれませんね。内部の写真の非公開と言われたのは最近は関係国からの訪日が増え天満宮も神経を使ってるからかもしれませんね。
浦辺登です。
10年前、『太宰府天満宮の定遠館』(弦書房)を出しました。参道の「小野東風軒」には、拙著を置いていただいてます。
小野隆助の顕彰碑も「だざいふ園」の右手奥に遺っていることが5年前に判明しました。明治維新150周年での太宰府天満宮でのイベントで作成された図録(西日本新聞社)にようやくにして小野隆助の顕彰碑が掲載され安堵しました。それまでは、太宰府天満宮刊行の図録にも出ていませんでしたので。
小野隆助は久留米水天宮の真木和泉の甥になりますので、蟄居中の真木和泉に会いに筑後市の水田天満宮にも行っています。
なお、光明禅寺にも「定遠」と彫られた机があります。
渡辺さんコメントありがとうございました。お詳しいと思ったら本まで出しておられるんですね。早速購入しようと思います。機会ありましたらいろいろとご指導よろしくお願いします。
内部が観覧できないのは残念、歴史物は中を見て歴史の真実に触れるのではと⁉️
内容が違いますが、熊本地震以来熊本城の内部が観覧できない事で来場者が激減、阿蘇もその通りです、57号線が使用できない為迂回路(S字カーブ)に大型トラック、大型バス等で混雑私も目的地に2.20(1.10通常).迂回路の店レストランは閉鎖してました、阿蘇方面には菊池渓谷からは○かも知れません、三年過ぎましたが現地を見て地震の影響に我ながら驚き‼️です但し南阿蘇、高森方面は道路が二つありますから混雑は大丈夫かな🤔長くなりましたが大事な事は安全第一を🙆♂️
Miyaさんコメントありがとうございました。被災地の方が私たちを忘れないでほしいといわれるゆえんですね。ついその時だけ目が向きますから引続き応援の必要性がありますね。
昭和40年頃、定遠館の西側に天満宮の神職の方が住んでおられ、その子供さんと
よく定遠館の門の所で遊んでいました。
隣の甘木屋の子供さんとも遊んでいましたが、門が戦争で傷ついたものとは知って
いましたが、まさか装甲板の鉄板とは知りませんでした。
樟ドンコメントありがとうございます。定遠館は意外と知った方少ないですね。渡辺登氏のお陰で定遠の引上げ理由がやっとわかりました。
以下は甘木屋のブログです。https://dazaifumiryoku.com/private/569/