こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

筑前国分寺跡

奈良時代の天平13年(741年)聖武天皇は当時天然痘や内乱などの社会不安が続いたため国を護るため廬舎那仏の浄土を現出し、平和で豊かな国家を建設しようという願いから奈良に東大寺を初め国内70か所に国分寺と国分尼寺の建立を命じました。
福岡県内には当寺と筑後国分寺、豊前国分寺がありました。

聖武帝 勅建 筑前国分寺碑

(正式名称:金光明四天王護国之寺)

寺域:192m四方

 
 
現国分寺は金堂跡に建っています。
 
 
 
真っ赤に紅葉した楷の木
 
 
 
 
 
七重塔の礎石
 
 
筑前国分寺跡の案内板
 
 
5.2mのミニチュアの七重塔
実物は54mでしたので約1/10の大きさ。
文化ふれあい館の庭にあります。
 
 
 
七重塔はどこからでもお参りが出来るように54mの高さでした。
 
 
 
八角燈籠
 
 
この燈籠は奈良東大寺大仏殿の前にある銅製八角燈籠をモデルとして製作。
東大寺は奈良時代に全国の国分寺の中心として建立され、金光明四天王護国之寺と呼ばれていました。そこでこの場所が国分寺の正面にあたることから、縁(ゆかり)のものを建立しました。

国分尼寺跡

案内板より

尼寺は正式名称を「法華滅罪之寺」といい、尼僧10人と規定された。ここは筑前国の国分尼寺があった所と伝えられるが、今はわずかに田圃の中に礎石が一個残るのみである。なお筑前国分寺は東300mの所にある。

(案内板には「今はわずかに田圃の中に礎石が一個残るのみである」と記されていますけど、現在その一個は下記に写真のように国分公民館の敷地にあります)。

 
 
 
現在、礎石の一個は国分公民館の敷地にあります。
 
礎石
この礎石は花崗岩でできておりおそらく金堂などの伽藍の中心になる建物で使われていたものと思われます。
 
柱を据える部分(柱座)が直径70cmの円形に造りだされています。このことから、当初使用されていた柱の大きさが窺えます。
 

現在の国分寺

旧筑前国分寺の後継寺
 
創建:元文年間(1736年)に中興の祖、俊了、国中の浄財を募って小堂を建立。
 
正式名称
高野山 真言宗 龍頭光山 筑前国分蜜寺
 
(金堂跡に建てられています)
 
山門
 
 
九州四十九院薬師霊場第一番札所
 
本堂
 
水城の水門に使用された木で作られた寺号額
 
本堂内
 
本尊:薬師如来坐像(重要文化財)
病気の治癒をお願いする仏様 
作者:行基菩薩(1300年前、奈良時代の名僧)
 
 
弘法大師像
 
往時の筑前国分寺の瓦
 
護摩を焚く窯
 
木曾桧の大コブ
大コブは強い生命力を持ちその塊であるコブに触れば元気を分けてもらえるとも言われています。
 
 
講堂跡の案内板
 
講堂跡(現国分寺の裏側)
 
境内
 
 
八十八体の地蔵
八十八か所巡りを表しています
 
 
 
筑前国分寺金堂礎石
 
薬師之水
 
 

紅葉のころ

七重塔

 
国分寺跡
 
楷(カイ)の木
別名 学問の木

太宰府官道

大宰府の出入口となった水城の西門・東門を通過する直線道です。西門ルートは筑紫館(鴻臚館跡)と大宰府を結ぶ道で、外国使節はこのルートで大宰府へ入りました。東門ルートは博多に繋がっており都からの官人赴任ルートとみられます。西門・東門ルートともに現在は市道として踏襲されています。
 
古代人は西門ルートや東門ルートからこの54mの高さの七重塔を拝みながら通っていたと思われます。
また外国からの使節や都からの官人に見せるために小高い丘にこの高さの七重塔を建て日本の国威や大宰府の権威を見せつけたのではないでしょうか。

PS百済の塔

以下郷土歴史家うっちゃんに「百済の塔」を提供いただきました。

「韓国もそうですが塔は全て奇数で作られていますね。
三重、五重、七重、九重の塔ですね。
写真は百済の塔です。
仏教の教えで塔は奇数の重ねで作るそうです。
偶数は視たことないですね」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
国分寺の七重塔にしても上記の鞠智城にしても百済の影響を受けているのは一目瞭然ですね。
うっちゃん貴重な情報の提供ありがとうごいました。
お蔭さまでブログに奥行きが出て理解が深まりました。
 

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