こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

今回は太宰府天満宮境内の延寿王院を紹介します。

「延寿王院」は元々安楽寺天満宮留守別当大鳥居の宿坊で、その名前の由来は1754年桃園天皇より院号を賜ったものです。

五卿遺跡の碑

延寿王院境内の碑

三条実美の次男の書といわれている

 

都から長州へ七卿落ち

1863年(文久3年)、薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策した八月十八日の政変で失脚した尊王攘夷派の7人の公家が京都を追放され、長州藩へと落ち延びました。同月24日には、彼らの官位が剥奪されました。

三条実美(実)、三条西季知(知)、四条隆謌(謌)、東久世通禧(通)、壬生基修(修)、錦小路頼徳(頼)、澤宣嘉(宣)の7人です。

七卿落ちの碑

延寿王院山門の左横にあります。

 

上の石碑の中央より少し下の四角の中の図がこの七卿落ちの状況です。

 

その後、錦小路頼徳は病没、澤宣嘉は長州に残り五卿となり

長州から太宰府延寿王院へ五卿落ち

五卿は第一次長州征伐の後に筑前大宰府延寿王院に移されました

明治維新の震源地

現在宮司の西高辻邸であり、幕末尊王攘夷派の三条実美ら朝廷を追われた5人の公卿が滞在し、その間、西郷隆盛、高杉晋作、平野國臣ら勤王の志士たちが出入りするなど明治維新の震源地となりました。

山門

筋塀について

上の写真の山門の両脇の茶色の塀を筋塀といい白い五本の線が入っているのがわかると思います。

筋塀は皇族や摂家などの御所に用いられました。皇室に由来する格式を表し、その格式の高さにより三本、四本、五本の種があり、五本を最高とします。皇族や摂家が入寺した問跡寺院(皇族・貴族が住職をつとめる寺院)などでも用いられその権威の象徴となりました。

 

 

延寿王院の境内

 

 

 

太宰府天満宮参道にある薩長土の定宿が向かって右から薩長土と並んでいます。

 

松屋(旧薩摩藩定宿)

今は梅が枝餅(右側)やお土産のお店です。

 

 

大野屋(旧長州藩宿場)

今はまめや、陶器店、右側は自宅の玄関のようですね。

 

 

泉屋(旧土佐藩宿場)

今は梅園というお茶の時のお菓子や進物、手土産のお店です。

 

日田屋(旧幕府定宿)

日田屋の名前の由来は大分県の日田は幕府の直轄地だったことから日田屋としたそうです。

今は石ころ館といって天然石、ネックレス、ブレスレットなどのアクセサリーを扱っています。

延寿王院に勤王の志士たちが集まることから幕府が監視のために薩長土の定宿の向かい側に建てたようです。

 

 

今回延寿王院をまとめてみて、七卿落ちや五卿落ちの理由、そこに薩長土の勤王の志士たちが集まり幕府の定宿が出来、明治維新の震源地となったことや筋塀のことなど改めて大宰府天満宮の歴史的背景を学ぶことができました。

この徒然日記に記事をアップすることによりより深く勉強することで知ることことができとても楽しいです!




塾長より

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