こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

延寿王院

「延寿王院」は元々安楽寺天満宮留守別当大鳥居の宿坊で、その名前の由来は1754年桃園天皇より院号を賜ったものです。

 

五卿遺跡の碑

延寿王院境内の碑

五卿西遷70周年祭を記念し「五卿遺蹟」の碑を建立。

三条実美の次男の書といわれている。

太宰府での五卿は福岡、薩摩、熊本、久留米、佐賀の5藩へ「お預け」され、延寿王院へ幽閉の身分だった。「五人衆」と呼ばれ、罪人扱いではあったが、公卿ということで一定の饗応(きょうおう)、応接は受けたという。

 

 

都から長州へ七卿落ち

1863年(文久3年)、薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策した八月十八日の政変で失脚した尊王攘夷派の7人の公卿が京都を追放され、長州藩へと落ち延びた。同月24日には、彼らの官位が剥奪される。

三条実美(実)、三条西季知(知)、四条隆謌(謌)、東久世通禧(通)、壬生基修(修)、錦小路頼徳(頼)、澤宣嘉(宣)の7人。

七卿西竄(せいざん)記念碑(七卿落ちの碑)

五卿応接の功で後に「廃仏毀釈」の難を逃れた延寿王院の山門前に「七卿西竄(せいざん)記念碑」がある。西竄は「西に逃れた」という意味を持つ。

 

上の石碑の中央より少し下の四角の中の図がこの七卿落ちの状況

 

足が白いのが公卿
 
足が黒いのが武士として表現されています(福岡市博物館)

 

その後、錦小路頼徳は病没、澤宣嘉は長州に残り五卿となり

長州から太宰府延寿王院へ五卿落ち

五卿は第一次長州征伐の後に筑前太宰府延寿王院に移される

明治維新の震源地

現在宮司の西高辻邸であり、幕末尊王攘夷派の三条実美ら朝廷を追われた5人の公卿が滞在し、その間、西郷隆盛、高杉晋作、平野國臣ら勤王の志士たちが出入りするなど明治維新の震源地となる。

山門

 

筋塀について

上の写真の山門の両脇の茶色の塀を筋塀といい白い五本の線が入っているのがわかると思います。

筋塀は皇族や摂家などの御所に用いられました。皇室に由来する格式を表し、その格式の高さにより三本、四本、五本の種があり、五本を最高とします。皇族や摂家が入寺した門跡寺院(皇族・貴族が住職をつとめる寺院)などでも用いられその権威の象徴となりました。

延寿王院の境内

 

 

 

薩長土藩の定宿

太宰府天満宮参道にある薩長土の定宿が向かって右から薩長土と並んでいます。

 

松屋(旧薩摩藩定宿)

今は梅が枝餅(右側)やお土産のお店です。

 

 

まめや((旧長州藩定宿 大野屋)

今はまめやは陶器店、右側は自宅の玄関のようですね。

 

 

梅園(旧土佐藩宿場 泉屋)

今は梅園という茶菓子や進物、手土産のお店です。

 

 

石ころ館(旧幕府定宿 日田屋)

日田屋の名前の由来は大分県の日田は幕府の直轄地だったことから日田屋としたそうです。

今は石ころ館といって天然石、ネックレス、ブレスレットなどのアクセサリーを扱っています。

延寿王院に勤王の志士たちが集まることから幕府が監視のために薩長土の定宿の向かい側に建てたようです。

 

 

今回延寿王院をまとめてみて、七卿落ちや五卿落ちの理由、そこに薩長土の勤王の志士たちが集まり幕府の定宿が出来、明治維新の震源地となったことや筋塀のことなど改めて太宰府天満宮の歴史的背景を学ぶことができました。

この徒然日記に記事をアップすることによりより深く勉強することで知ることことができました!

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