こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

戦国時代福岡新宮の立花山城城主 立花道雪、太宰府の岩屋城城主 高橋紹運、鳥栖の勝尾城城主 筑紫広門は豊後大友配下の武将でした。今回はその一人勝尾城城主の拠点を訪ねました。

戦国時代 1578年頃の九州の勢力図

九州は豊後大友、肥前竜造寺、薩摩島津の三つ巴でした。

当時の豊後大友の勢力は西は肥後中央以北、東は日向耳川以北と北部九州ほぼ全域に及んでいました。  

 

先ずビデオで全体をご覧ください。

人物が特定できないようにぼかしています(撮影Storchさん)

国指定史跡 勝尾城筑紫氏遺跡

説明板

「勝尾城筑紫氏遺跡は戦国時代現在の鳥栖市を中心に小郡市・筑紫野市・大野城市・那珂川市一帯に勢力を広げた戦国武将筑紫氏の城下町跡です。

本城の勝尾城(城山:標高498m)を中心に、周囲には葛籠城、高取城、鬼ケ城、鏡城、若山砦の支城が現在も良く残っています」。

支城

筑紫氏館跡

 

 

 

十三仏建立記念碑

 

十三仏

 

シャガ

 

最大の難所

 

案内図

 

勝尾城の大手曲輪

大手曲輪は勝尾城の正面入口にあたり石垣をはじめ曲輪群、堀切で構築されています。

 

 

ハイノキ

 

 

岩の大きさがわかるようにモデルに立ってもらいました。

 

 

 

 

 

ミツバツツジ

 

城山(じょうやま)山頂498m

筑紫氏の本城 勝尾城跡

 

 

勝尾城の主郭

筑紫氏の本城で主郭内の周囲には土塁及び石垣、横堀を巡らせ、堅固な築城となっています。

城山(勝尾城跡)

「1423年~1586年までの約170年間、その間城主の移り変わりは目まぐるしいが、1497年以降は満門ー惟門ー広門と三代にわたる筑紫一族の本拠地となっています。1586年7月薩摩・島津軍の攻略により落城しています」。

筑紫家はその後明治まで生き残る

広門はその翌月には城を奪還し、豊臣秀吉の九州平定の軍に加わります。この功で筑後国上妻郡(福岡県八女地方)18,000石の大名になります。広門はその後文禄・慶長の役に出陣しますが1600年の関ケ原の戦いでは西軍に参戦したため徳川方により所領没収され、一時肥後の加藤家の扶助を受けます。のちに広門の子孫は徳川幕府の知行3000石の大身旗本となり筑紫家はその後明治まで存続します。

山頂

 

物見岩からは未納連山、筑紫平野が一望

 

アザミ

 

オドリコソウ

 

豊後大友配下の立花城の立花道雪、岩屋城の高橋紹運、勝尾城の筑紫広門はこちら ↓

 

立花城の立花道雪はこちら↓

 

上馬場の大藤

樹齢百数十年と考えられ根廻り3m

見ごろは4月下旬から5月上旬

場所:朝倉市筑前町上高田字中園

 

 

 

 

 

御前湯

帰りに二日市温泉に入りました。

 

勝尾城がある城山の登山口には九州各県からロッククライミングのリーダー研修に20~30人が集まっていました。道中1カ所だけロープを使ってやっとこさ登ったところがありましたけど、それ以外に険しいところがあるのでしょうね。

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塾長より

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