こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。
「復活の大名 立花宗茂展」
2020.12.4~2.7
関ケ原の戦いで改易された大名のうちで唯一、もとの領地に大名として復活できた立花宗茂の足跡と魅力を紹介されています。
①柳川古文書館
②立花家史料館
立花宗茂
●1567年豊後国で生まれる。
●後の太宰府岩屋城城主 高橋紹運の長男宗茂は福岡立花城城主立花道雪の一人娘誾千代(ぎんちよ)の婿として迎えられる。(高橋宗茂から立花宗茂となる)
●豊臣秀吉が全国制覇を目指す、一方薩摩も全国制覇を目指し両雄が立花山で戦い豊臣方が勝ち薩摩は撤退。その戦いで宗茂は功をたて秀吉から柳川12万石を拝領、柳川藩立花家初代藩主となる。
●関ケ原の戦いでは西軍についたため城を追われ浪々の身に。しかしその人望と実力を高く買われ、徳川二代将軍秀忠から奥州棚倉(現在の福島県東白川郡棚倉町)を与えられ大名復帰。さらに1620年には旧領・柳川に再封される。
関が原の戦いで敗れて旧領に復帰した唯一の大名。
誾千代
●立花道雪の娘として筑後国(今の久留米市)で生まれる。
●7才で道雪から立花城の城主の座を譲られる。日本史上唯一の女城主。
●宗茂と結婚
立花道雪、立花宗茂、立花誾千代
三柱神社
御祭神
立花道雪、立花宗茂、誾千代
本殿
柳川川下り
所要時間約1時間10分
川下りに使用するお堀は、元々市民の生活用水路として使用されており、約410年前に柳川城築城の際、城下町の形成のため人工的に堀を掘って整備したのが始まりだそうです。
筑後国主 田中吉政公之像(1548年〜1609年)
柳川掘割を整備した「筑後国主」
田中吉政は1600年の関ヶ原の戦いにおいて、敵方大将石田三成を捕らえる等で活躍。その功績が認められ、久留米藩と柳川藩を含む初代筑後国主として柳川城に入城。柳川城をはじめ、掘割や道路、干拓の整備を進めたと言われています。
柳川出身の詩人北原白秋の「待ちぼうけ♪」
柳川名物うなぎ料理
立花氏庭園「御花」
1738年柳川藩五代藩主 立花貞俶(さだよし)が造営した別邸
国の名勝に指定
雛飾り
松濤園
柳川城跡
1558~70年に蒲池鑑盛が築城。城主は蒲池から竜造寺に移り、豊臣秀吉の九州平定後立花に代わる。
旧戸島家住宅
寛政年間に築造され藩公の茶室となっていた旧戸島家住宅。
国の名勝に指定
太宰府岩屋城城主 高橋紹運(立花宗茂の父親)はコチラ↓
福岡立花城城主 立花道雪(誾千代の父親)の立花城はコチラ↓
本篇の立花宗茂・誾千代、上記リンクの高橋紹運、立花道雪それぞれのブログをアップすることにより4人の実績、功績、関連性がわかりました。
今柳川ではNHK大河ドラマ「立花宗茂と誾千代」の招致活動が行われていました。
おもしろいドラマになりそうですね。
塾長より
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太宰府の岩屋城~立花城~関ヶ原~柳川城(掘り割り)~近代と歴史は繋がっていますね。関ヶ原で功績を挙げた近江の「田中吉政」が柳川に入り掘り割りを造りを成し遂げたとありますね。その後、立花宗茂が再入国し今の柳川市がありますが立花邸の解説ボランティアが二人の事を以下の通り語っています。
「町割に大きく貢献した田中吉政を、立花宗茂も敬っていたはずです。その証拠として田中吉政を埋葬した菩提寺・眞勝寺は立花宗茂が復帰した後も城下町に残されています。立花家の菩提寺は同じく城下町にある福厳寺。立花家と田中家の菩提寺が城下町に共存していることになり、とても珍しいことです」とあります。
以前、私(うっちゃん)も田中吉政公のお墓に参ってきました。
うっちゃんのコメントを参考に田中吉政の写真と少々の説明を追加しました。
お陰様で大変勉強になりました。