こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。
先日西南戦争の激戦地「田原坂」を訪ねてきました。
明治維新は無血革命とはいえ、わずか140年前の明治10年の西南戦争ではここ田原坂で両軍合わせて14000人の犠牲者を出しました。
その上に今の平和日本があることを知りました。
昔から疑問に思っていたのが、
「なぜ西郷隆盛は新政府設立の立役者なのに新政府と戦うことになったのか?」
それが今回わかりました。
西郷隆盛と征韓論
西郷隆盛は新政府で「征韓論」を訴えます。
「征韓論」という字を見ると「韓国を征服する」(一部には字の如くの征韓論もありました)ようなものだと思いますが実は違います。
当時韓国は日本と同様「鎖国」をしていました。鎖国同士で仲が良かったんでしょうね。
当時ロシアから韓国が植民地化されるのを危惧した西郷隆盛は韓国に開国して諸外国と国交を持つように進言しようと考えました。
その理由は韓国がロシアに植民地化されると言うことは次は日本が狙われるからです。
しかし、新政府は今は国内に専念すべきとこの征韓論は受け入れられず西郷は薩摩に戻ります。
余談ですが、最近では「征韓論」ではなく「遣韓論」と呼び方が変わっているようです。
「征服」ではなく昔の遣唐使のような国交が目的だからです。
西南戦争のキッカケは?
薩摩に戻った西郷隆盛は私学校を設立します。
私学校とは1874年6月設立した学校。銃隊学校と砲隊学校から成り、篠原国幹、村田新八がそれぞれ主宰しました。
鹿児島県下に 136の分校をもち、県令大山綱良の支持のもとに士族を基盤として成立しました。
西南戦争のキッカケは
・「弾薬略奪事件」~新政府は、薩摩に対し反乱のおそれがあるとし、薩摩にある弾薬庫を大阪に移します。
・「西郷暗殺計画事件」~新政府はその中心人物は西郷隆盛でないかと西郷隆盛の暗殺を計画をしたといいます。
それに怒った私学校の生徒を中心に新政府に対する反乱軍を起こしたのが西南戦争です。
そして西南戦争とは
激戦地田原坂の
一の坂、二の坂、三の坂
この写真は弾痕跡です。
その後田原坂から熊本城を訪ねました。
実は熊本城はこの西南戦争とも関係があるんです。
薩摩軍がまず熊本城を攻めた後に北上。そして南下してきた官軍と田原坂で激戦を繰り広げたのです。
政府軍は制服で帽子に靴。
一方薩摩軍は着の身着のままに草鞋。
薩摩軍の総司令官桐野利秋。
鹿児島に伝わる田原坂の歌
ナレッジさんがコメントで書いてくれていますが、お祭りの時に地域の男の子数名が集められ、「お祭りの山車の上で演武する練習するぞ!」と言われ、嫌々ながら参加したことがあるそうで、その演目が「田原坂の歌」だったそうです。
雨は降る降る人馬は濡れる
越すに越されぬ田原坂右手に血刀左手に手綱
馬上豊かな美少年春は桜秋ならもみじ
夢も田原の草枕
田原坂
子供の頃は、歌詞の意味も分からずに、おもちゃの小刀を振り回して演じたそうですが、50歳を過ぎた今でもそのメロディーと歌詞を覚えているそうです。
熊本城2018の今
熊本城は先の災害で一部崩壊しましたが、天守閣の今の復興状況です。
ほとんどの無傷の宇土櫓です。
私は熊本出身で昔から熊本城を見てきました。
熊本城は熊本のシンボルだと思っていますが、その熊本城が崩れるのは本当に心が痛みました。
1日も早い復興を願うばかりです。
そして、熊本城が修復したらまた訪れたいと思います。
▶fukuda0917@yahoo.ne.jp
塾長より
いつも記事をお読みいただきありがとうございます。
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明治の新政府は明治10年の西南戦争集結によりやっと10年かかって正式に立ち上がったということですね。よく理解できました。
ありがとうございました。
黒田あかんべえさんコメントありがとうございました。
今回わたしも西郷どん史跡巡り第一弾、第二弾を書くことにより初めて知りました。
近い内に第三弾をアップ予定ですので楽しみにしていてください。
何時も素晴らしい徒然日記。今回の田原坂を拝見しますと歴史の空間を見ることができ、そうか、もう140年過ぎたかと一人感慨深く記憶が蘇りました。清正公「この銀杏の木が天守と同じ高さになった時にこの城で兵乱が起こるだろう」と、西郷どん「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」。偉大な二人が、なにか時代を超えて会話してたような大らかさを感じます。西郷さんの偉大さは、九州以外で南洲神社あるところは山形は酒田市、戊辰戦争と繋がりがあるようでして顔・体格からして日本人離れした豪州(内乱がない)の大きさを感じます。今回の日記は最高ランク。感謝!
会長様コメントありがとうございました。
過分なお褒めに預かり恐縮しています。それにしても会長様の詳しさに感心してます。
調べてみましたら戊辰戦争で反政府軍の会津に公正な処分をしてくれたことに感謝しての南洲神社建立のようですね。
前の塾長のコメント中の会津は山形酒田市の間違いでした。
訂正いたします。
へえー?西南戦争はそうゆう事から始まったのだ!
勉強になります!
カワカミさんありがとうございました。
私も今回徒然日記を書くことにより初めて知りました。
西南戦争の謎の部分が見えてきました。
新政府が恐れるくらいの武器弾薬を何故、薩摩は所持していたのでしょうか?
もしや薩英戦争の時のものがそのまま残っていたのでしょうか。
新政府が出来たものの話し合いで解決出来なかったのがやはりその時代だったからでしょうか。
薩摩の武器弾薬所持や西郷さんの私学校創立や新政府は薩摩や西郷さんに大きな脅威を抱いていたのでしょうね。
よかおごさんコメントありがとうございました。
1874私学校は士族を中心に銃隊学校と砲隊学校の136の分校を設立。
1868年明治政府設立以降も1869戊辰戦争、1870箱館戦争でやっと落ちついたと思いきや、各地で士族の反乱の勃発(1874佐賀の乱、1876秋月の乱、神風連の乱、1877福岡の乱)そして1877西南戦争。
新政府も薩摩の動きには目が離せなかったと思います。(参考1873征韓論)
薩摩も沢山の弾薬を持ってたと思われます。
西南戦争の始まりは政府への不満分子をおさえきれず、
“この日本を掃除しもんそ!”
止む無く立った西郷の覚悟と
(この辺で良かろか)と言って介錯させた事などまるで兄は見てきた様に話して聞かせ、懐かしい思い出です、
今乙女さんコメントありがとうございました。
お兄さんそこまでご存知とはすごいですね!
あらあら?今乙女⁉️
ちょっと無理がありますので
昔乙女が落ち着きますわ。
有難う…
田原坂、日本の明治維新を語るにはなくてはならない地ですね。また、やはり西郷隆盛ブームでしょうか、外国の方々が多いんでしょう看板も3ヶ国語なんですね😅
熊本城も修復まだまだですね😅しかし、この状況が見れるのも今だけですからね。しっかり見て、伝え行かなければと思います!
キャンディさんコメントありがとうございました。
明治新政府樹立後の構想が龍馬にはあったが西郷にはなかったから征韓論、西南戦争に進んだんではないかなとも思います。
薩摩の人間です。もちろん「西郷どん」欠かさず観ています^^。
「田原坂」と聞いて、ふっと思い出すことがあります。
子供の頃、お祭りの時に地域の男の子数名が集められ、「お祭りの山車の上で演武する練習するぞ!」と言われ、嫌々ながら参加したことがあるのですが、その演目が「田原坂の歌」でした。
雨は降る降る人馬は濡れる
越すに越されぬ田原坂
右手に血刀左手に手綱
馬上豊かな美少年
春は桜秋ならもみじ
夢も田原の草枕
田原坂
子供の頃は、歌詞の意味も分からずに、おもちゃの小刀を振り回して演じたものですが、50歳を過ぎた今でもそのメロディーと歌詞を覚えているんですよね。
このブログ記事を拝見し、今改めて見て思い返すと、「そうだったんだ・・」と、その歴史の奥深さを伝承していたんだな、と、とても奥ゆかしく懐かしい、涙深い気持ちになりました。
ナレッジさんコメントありがとうございました。
薩摩の方に見ていただけとても光栄です。
西郷どんを学ぶことにより明治維新が理解できとても勉強になりました。
薩摩に西郷どん大好きです!