こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

念願の「岩屋谷磨崖仏石塔群」の撮影に行きました。

 

登山口はいろいろありますけど先日は大宰府観世音寺裏から行きました。

 

太宰府観世音寺団地の池の三叉路を左へ

 

そこにこの案内板。

 

さらに100mほど行くとこの案内板、ここを右へ行くと金光寺跡。

 

推定金光寺跡

観世音寺境内及び子院跡

 

 

 

 

このお墓の左上に磨崖仏への登り口があります。

チョッと分かり難いです。

 

200mほど行くと磨崖石塔群まで500m

 

 

あと300m

 

途中に「萩尾大学」の墓

萩尾大学は高橋家家臣、北原鎮久の謀叛を察知した紹運の命で鎮久を討ち取る。

1586年薩摩が攻めて来たときに岩屋城に763名籠城し全員と共に討死。

 

 

 

少し登ると「岩屋谷磨崖仏石塔群」の案内板。ここを右へ。

この案内板が裏返しになって落ちていたので入口をしばし探しました。

 

起こして立てかけパチリ。

 

現地にこの案内板があります。

岩屋谷磨崖石塔群

①磨崖宝篋印塔(1387年?)

②磨崖宝塔(1346年)

③磨崖宝篋印塔(1346年)

④磨崖梵字仏(1343年)

 

磨崖仏(まがいぶつ)は、そそり立つ岩壁や岩壁を龕状に彫った内側に刻まれるなど、自然の岩壁や露岩、あるいは転石に造立された仏像を指します。

切り出された石を素材に造立された石仏(独立石仏)は移動することが可能であるが、磨崖仏は自然の岩壁などに造立されているため移動することができません。

 

写真を拡大すると微かに見えます。

①②③④4体の磨崖仏

はっきり見えませんけどわたしのカメラでは精いっぱいですね。この写真の下の写真では少しわかります。

 

左半分の

①磨崖宝篋印塔

②磨崖宝塔

辛うじて見えます。

 

右半分の

③磨崖宝篋印塔

④磨崖梵字仏

同じく辛うじて見えます。

 

 

足場が悪く足を踏み外したら崖から転げ落ちそうでした。

 

その先の岩場

 

 

 

 

 

 

一番奥にこの建物

 

念願の写真撮影ができ高橋紹運公の胴塚へ

もう少し

 

逆から登って来たのでこの案内板。

 

前方に高橋紹運公の墓(胴塚)が見えて来ました。

 

 

高橋紹運公の墓の門扉

 

 

右側が高橋紹運公の墓

 

左奥に勇士一同の墓

 

ここから大原山まで1.2km

今日は大原山には行きません。

 

墓から登って行ったところに車道に面した案内板(こちらも逆から来たので)

 

 

車道を少し下ると左手にすぐ「岩屋城跡」の案内板

 

 

この階段を5~6m

 

ここを右へ20m

 

岩屋城本丸跡

 

 

 

「嗚呼 壮烈 岩屋城址」

 

 

岩屋城の高橋紹運、立花城の立花道雪、鳥栖勝尾城の筑紫広門についても掲載 ↓

 

岩屋城本丸跡からの眺め右から左へ

可也山(糸島富士)

真ん中遠方に微かに見えます。

 

背振山

遠方真ん中の高い山

 

九千部山

遠方の高い山

 

基山(基肄城 きいじょう)

真ん中の高い山

 

天拝山

遠方の高い山の手前の山

 

 

未納連山

久留米になります。

 

大根地山

遠方の高い山

 

宝満山

 

すばらしい眺めが一望に見られます!

 

眺めを満喫して車道を下って来て2.5km、赤い橋の浦ノ城橋

 

こちらの登り口からは2.5km

 

往復3時間の道のりでした。写真撮影なしであれば1.5~2時間のハイキングコースです。

ただ後半の高橋紹運公の墓手前の急坂は息が上がりました。

 

ここの磨崖仏の制作年代(ブログ作成の時点では上記写真に記載の制作年代に気づきませんでした)、目的がなんであったのかまだ理解していません。

774年に四王寺山に四王院が置かれ四天王が建てられた(これをきっかけに四王寺山といわれるようになった)ことと関係あるのか、

四王寺山の尾根を中心にある江戸時代に制作された三十三石仏と関係があるのか今後情報収集してみようと思います。

 

今日は念願の磨崖仏の撮影ができ満足の一日でした!

 

PS 制作年代の背景について

本日2019.10.4現地の案内板を再度見直していましたら制作年代が記されていました。

「岩屋谷磨崖石塔群

磨崖正面左から1387年?、1346年、1346年、1343年

(磨崖石塔から右側5メートル先上部岩面に彫られている)」。

右側から彫ってきています。

1337~1392南北朝時代

北朝:足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立して設立。

南朝:京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮で設立。

ですので南北朝時代の制作になります。

そうすると1359年が大保原の戦い(筑後川の戦い)ですので懐良親王、菊池武光との関係もあるのかもしれませんね。

もうすこし調べてみます。

 

もう一点

磨崖仏の制作年代順は一つの岩に右から

④磨崖梵字仏(1343年)、③磨崖宝篋印塔(1346年)、②磨崖宝塔(1346年),①磨崖宝篋印塔(1387年?)に彫られています。④→③、②までは3年なので計画通りとしても②→①までは約41年の空白があるわけで、それは当初から予定していたのか、たまたまなのか。空きスペースとしては1/4が残してあるのですよね。何故41年も空いているのか興味が沸きます。




塾長より

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