こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。
念願の「岩屋谷磨崖仏石塔群」に行きました。
岩屋谷磨崖仏石塔群
登山口はいろいろありますけど太宰府観世音寺裏から行きました。
太宰府観世音寺団地の池の三叉路を左へ
案内板
さらに100mほど行くとこの案内板、ここを右へ行くと金光寺跡。
推定金光寺跡
観世音寺境内及び子院跡
このお墓の左上に磨崖仏への登り口があります。
チョッと分かり難いです。
200mほど行くと磨崖石塔群まで500m
あと300m
途中に「萩尾大学」の墓
萩尾大学は家中一の剣豪で立花宗茂の剣の指南役でもあり、宗茂と二人して敵将の首を獲っています。
1586年薩摩が攻めて来たときに岩屋城に763名籠城し全員と共に討死。
少し登ると「岩屋谷磨崖仏石塔群」の案内板。ここを右へ。
岩屋谷磨崖石塔群
磨崖仏(まがいぶつ)とは、そそり立つ岩壁や岩壁を龕状に彫った内側に刻まれるなど、自然の岩壁や露岩、あるいは転石に造立された仏像を指します。
切り出された石を素材に造立された石仏(独立石仏)は移動することが可能であるが、磨崖仏は自然の岩壁などに造立されているため移動することができません。
摩崖仏は左の岩に彫ってあります
画面を拡大してください
足場が悪く足を踏み外したら崖から転げ落ちそうでした。
その先の岩場
一番奥にこの建物
念願の写真撮影ができ高橋紹運公の胴塚へ
もう少し
逆から登って来たのでこの案内板。
前方に高橋紹運公の墓(胴塚)が見えて来ました。
右側が高橋紹運公の墓(胴塚)
左奥に勇士一同の墓
高橋紹運公の菩提寺西正寺・首塚はこちら↓
ここから大原山まで1.2km
今日は大原山には行きません。
墓から登って行ったところに車道に面した案内板(こちらも逆から来たので)
車道を少し下ると左手にすぐ「岩屋城跡」の案内板
この階段を10m程登り
右へ20m程登ると
岩屋城本丸跡
「嗚呼 壮烈 岩屋城址」
岩屋城の高橋紹運、立花城の立花道雪、鳥栖勝尾城の筑紫広門についても掲載 ↓
岩屋城本丸跡からの眺め右から左へ
可也山(糸島富士)
真ん中遠方に微かに見えます。
背振山
遠方真ん中の高い山
九千部山
遠方の高い山
基山(基肄城 きいじょう)
真ん中の高い山
天拝山
遠方の高い山の手前の山
未納連山
久留米になります。
大根地山
遠方の高い山
宝満山
すばらしい眺めが一望に見られます!
眺めを満喫して車道を下って来て2.5km、赤い橋の浦ノ城橋
こちらの登り口からは2.5km
往復3時間の道のりでした。写真撮影なしであれば1.5~2時間のハイキングコースです。
ただ後半の高橋紹運公の墓手前の急坂は息が上がりました。
ここの磨崖仏の制作年代(ブログ作成の時点では上記写真に記載の制作年代に気づきませんでした)、目的がなんであったのかまだ理解していません。
774年に四王寺山に四王院が置かれ四天王が建てられた(これをきっかけに四王寺山といわれるようになった)ことと関係あるのか、
四王寺山の尾根を中心にある江戸時代に制作された三十三石仏と関係があるのか今後情報収集してみようと思います。
今日は念願の磨崖仏の撮影ができ満足の一日でした!
PS 制作年代の背景について
現地の案内板を見直していたら制作年代が記されていました。
「岩屋谷磨崖石塔群
磨崖正面左から1387年?、1346年、1346年、1343年
(磨崖石塔から右側5メートル先上部岩面に彫られている)」。
右側から彫ってきています。
1337~1392南北朝時代
北朝:足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立して設立。
南朝:京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮で設立。
ですので南北朝時代の制作になります。
そうすると1359年が大保原の戦い(筑後川の戦い)ですので懐良親王、菊池武光との関係もあるのかもしれませんね。
もうすこし調べてみます。
もう一点
磨崖仏の制作年代順は一つの岩に右から
④磨崖梵字仏(1343年)、③磨崖宝篋印塔(1346年)、②磨崖宝塔(1346年),①磨崖宝篋印塔(1387年?)に彫られています。④→③、②までは3年なので計画通りとしても②→①までは約41年の空白があるわけで、それは当初から予定していたのか、たまたまなのか。空きスペースとしては1/4が残してあるのですよね。何故41年も空いているのか興味が沸きます。
▶fukuda0917@yahoo.ne.jp
塾長より
いつも記事をお読みいただきありがとうございます。
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これからも太宰府の魅力をお伝えしていきますので
応援よろしくお願いします。
あい変わらす凄い行動力ですね。沢山の写真有難うございます。知っていたのは、岩屋城ぐらいした。まだまだ観るところが沢山ありますね。お疲れ様でした。
萱嶋さんコメントありがとうございました。わたしの行動力なんてまだまだひよ子です。77才で毎日四王寺山に登る人もいます。今度は四王寺山の三十三石仏を廻ろうと思ってます。
岩屋城って、すんごくいい景色ですね。
たまたまなのか他に誰もいなさそうですね。太宰府の穴場なんですかね?
今はちょうどいい季節で、のんびりお弁当食べるにはよさそうですね。
ただ、歩いて登るのは・・・きついかな(笑)
いまやどさんコメントありがとうございました。
景色はほとんどいつもキレイに見えます。
当日は前日雨だったので余計にキレイだったかもしれませんね。
普段登るのは市民の森からですのである程度楽でお昼食べるには人は少なく絶好の場所だと思います。
四王寺に磨崖仏があるのですね!
バリ興味あります!
これは見に行かねばならぬ。
さすらい太郎さんコメントありがとうございました。わたしもはじめての知りました。どういう目的で制作されたのか調べてみようと思いますよ。
わかり易い説明と写真いつ行ってもあんなに綺麗に山々が、撮れる訳では無いのでは。
空の靑色とのコントラストが見事
一度自分も体験してみたいですけどやっぱり無理?
きくよさんコメントありがとうございました。
景色はほとんどいつもキレイに見えます。当日は前日雨だったので余計にキレイだったかもしれません。
普段登るのは市民の森からですのである程度楽ですよ。
前の匿名のコメントは塾長でした。
以下太宰府市役所文化財課のMさんより。
願主はそれぞれに彫られているのですが、剥落してよくわかりません。
ここよりちょっと離れたところにある貞和2年(1346年)の磨崖宝塔には「明春」と読めるものがありますが、僧侶だと思うのですが、どんな人物かよくわかりません。
基本的に貞和2年に磨崖仏が彫られたということです。磨崖梵字仏の時期差はなぜでしょうね?一番新しいものは年号部分が剥落し「丁卯三月」しか残っていませんが、1387年と推定されています。その刻文の中に「三十三回忌」という文章が見られるので、きれいに33年後ではありませんが追善供養のために、後の時代の人が追刻したと思われます。それぞれ阿弥陀如来や阿弥陀三尊の梵字があり、右端のものには「往生極楽」という文字もみえることから、阿弥陀信仰や葬送・供養のために彫られたものかもしれません。南北朝期の慌ただしいこの時期に四王寺山でも活発な宗教活動が継続的に行われていたことを物語る貴重な資料です。
昨日は竹田市の岡城跡を散策しました。薩摩軍が五千人の軍勢で1586年に攻め入ったと記してありました。しかし難攻不落で引き返した記録です。その足で岩屋城に攻め込んだのでしょうね。北上するほど兵士が増えていくのは農民を加える?同行した仲間が言いました。
水城さんコメントありがとうございます。
薩摩軍は岩屋城落城の1856年、竹田方面からも北進してきているのですね。薩摩軍の北進の足跡を辿るのも興味がありますね。