こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

先日久留米つばき園、石橋文化センターにツバキを見に行き、久留米城に初めて行きました。

久留米城跡

所在地:久留米市篠山町444

電話:0942-33-3030

1983年(昭和58年)福岡県の県史跡に指定

2017年(平成29年)続日本名城に選定

明治初期の久留米城

久留米城の概要

案内板より

「戦国の時代より土豪・豪族の間に、この古城をめぐって攻防の歴史を繰り返しながら1621年有馬豊が丹波福智山より転封入城し、以降廃藩に至るまで十一代250余年の間、有馬家累代の居城として藩府が置かれていました。

本城は北西に筑後川を自然の濠とし、天恵の地勢を活用したすこぶる険要の地にあります。築城法は平山多聞造りで、高い白土の城壁そびえたつ二層と三層の七つの櫓があり、本丸東南隅三層建の巽櫓は壮大な偉容を誇っていました。

現在は石垣だけが残り、城内には有馬三氏を祀る篠山神社や有馬家資料を展示する有馬記念館があります」。

久留米城の年表

1504年~1521年、室町時代の後期にこの地に土豪が篠原城(しのはらじょう)と称した砦程度のものを築いたのが始まりとされます。

1587年豊臣秀吉が九州を平定すると13万石で筑後久留米に毛利秀包(大友宗麟の娘婿)入城。

1600年の関ヶ原の戦い後、筑後国には田中吉政が32万5千石で封じられ柳川城を本城としました。

久留米城は柳川城の支城とし二男の田中吉信を城主としました。

1615年一国一城令により廃城となりました。

1620年田中吉政の子忠政には嗣子(しし)がなく没し、筑後柳川藩田中忠政は改易となりました。

1621年北筑後国に丹波国福智山城 城主有馬豊が8万石から大幅に加増され21万石で封じられ廃城も同然にまで荒れ果てた久留米城を大規模に拡張。

以後、明治維新(明治元年1868年)まで久留米は西国の大藩である有馬氏の居城となりました。

1871年(明治4年)廃藩置県により久留米城廃城。

1872年(明治5年)久留米城解体・払下げが始まりました

1877年(明治10年)石垣も解体されようとしたが阻止され、本丸御殿跡地に篠山神社が創建されました。

久留米城本丸跡

 

冠木御門

本丸の正門

 

巽櫓二段石垣

 

北西には筑後川

 

篠山(ささやま)神社

1877年(明治10年)久留米藩祖有馬豊を祀る篠山神社は久留米城本丸御殿跡に地域の復興と安寧を願って建てられました。

 

篠山神社本殿

 

東郷元帥旧書斎

大正15(1926)年、久留米市出身の実業家小倉敬止が東京にあった東郷平八郎の書斎を買い受け、篠山神社参道東側に寄贈し移築しました。
その後、昭和 35(1960)年、石橋正二郎により久留米城が整備された際、現在地に再移築されました。
現在、この書斎は東郷記念館として一般に公開(要予約)されています。

 

競馬 有馬記念の名前の由来

有馬記念は日本中央競馬会が中山競馬場で実施する中央競馬の重賞競走(G1)

有馬記念は1956年に、中山競馬場の名前を冠した「中山グランプリ」として創設されました。 翌年の1957 年、中山グランプリ創設者であった日本中央競馬会(JRA)の有馬頼寧理事長(当時)が急逝。 有馬理事長の功績を称える意味で「有馬記念」に名称を変更し現在に至ります。

有馬頼寧(ありまよりやす)

1884年~1957年 (73才)政治家。有馬家の第15代当主。東京帝大卒業後、農商務省に入り、大正13年(1924)衆議院議員、昭和4年(1929)貴族議員となる。昭和12年(1937)には農林大臣に就任。1957年日本中央競馬会(JRA)の理事長(当時)在任中に急逝。

 

 

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塾長より

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