船上からの普賢岳

 

世界文化遺産 原城跡

1599~1604年頃にキリシタン大名の有馬晴信によって築かれた城郭。有馬氏本城の日野江城が手狭だったため新たに巨大で堅固な原城が築城されました。1616年奈良大和五条より入封した松倉重政が島原城を築き居城を移したため、原城と日野江城は廃城になりました。

一揆当時の原城

 

駐車場から本丸(池尻口門側)への道

 

1637~1368年の島原・天草一揆(島原の乱)では、度重なる飢饉過酷な税の取り立て(島原城の築城のための作業や費用を確保するため領民たちに通常の二倍の年貢を課す)、キリシタン弾圧に耐えかね、3万8000人を超える領民が蜂起し、最終的には廃城となっていた原城に籠城。一揆勢のほとんどはキリシタンでした。一揆は約4ヶ月の長期戦となりましたが、兵糧攻めの末、1638年2月末の幕府軍の12万人の総攻撃により鎮圧。一揆以降鎖国政策、キリシタン禁制および領民の統制が強化されました。

キリシタン弾圧では彼らを雲仙に湧く熱湯の温泉で生きたまま茹でた後、信仰を捨てるまで拷問など。

 

島原藩の藩主、松倉重政は一揆の責任をとらされ、鎮圧後に斬首されました。

城主で斬首されたのは後にも先にも松倉重政だけでした。

2018年に世界遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産の一つ。

 

天草四郎像

小西行長(肥後宇土城主)の家臣、益田甚兵衛の子。島原・天草一揆に際し、若干15才という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対立。幕府軍の圧倒的な総攻撃により終結。四郎は本丸で首を切られ、長崎でさらし首にされました。当時の天草の領主は小西行長。

北村西望作(代表作:長崎平和祈念像)

 

遠くに天草

 

原城の石垣は島原・天草一揆の終結後、幕府軍により徹底的に破壊され城としての再生を不可能にしました。一揆勢の怨念を断ち切り、城の機能を徹底的に壊して廃城として、原城が再び一揆の拠点となることを防止する意図があったと思われます。

 

島原城

日本百名城の一つ

1616年、大和(奈良県)五条から島原に移封した松倉重政は、1618年から7年余の歳月を費やして島原城を築きました。

城は4氏19代253年間の居城でしたが、1874年(明治7年)に廃城となり、民間に払い下げられました。

 

 

日本名水百選「鯉の泳ぐまち」

1978年(昭和53年)水路に色とりどりの鯉を放流したのが始まりです。

水の都島原を代表する名所。 島原には至る所に湧水があり、1985年(昭和60年)「島原湧水群」として日本名水百選に指定。

鯉の泳ぐまち-1

 

 

湧水庭園「四明荘」 

国の登録有形文化財・記念物

明治後期から大正初期ごろに伊東元三(当時開業医師)が別邸として建築、四方の眺望に優れていることから「四明荘」と命名。

1日に3,000トンの湧水が自噴する池があり色とりどりの鯉が泳ぎ、菖蒲や苔や木々が彩りを添えてくれます。

 

 

 

 

島原の郷土料理 具雑煮(ぐぞうに)

元祖姫松屋

具雑煮の由来:1637年の島原の乱の時、一揆軍の総大将であった天草四郎が、約3万8千人の信徒たちと籠城した際、農民たちに餅を兵糧として蓄えさせ、 山や海からいろいろな材料を集めて雑煮を炊き、栄養をとりながら約4ヶ月も戦ったと言われています。

 

 

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今回の島原旅行は家内の両親の墓参りを兼ねての観光、一番の目的は島原の乱で一揆勢が立て籠った原城跡でした。現地に行くことによって歴史の理解が深まります。上記掲載の「一揆当時の原城」に見られるように廃城になっていたので建物のないところで具雑煮を食べながら4ヶ月間籠城したことや島原と天草の近さなど。改めて島原の乱に関する書物も読んでみようと思います。

帰りにはゆとろぎ足湯に浸かり疲れを癒しました。充実した一日になりました。

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