こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

前回下記のブログでここ大宰府政庁跡の東側にある佛心寺は梅花の宴の舞台だった大伴旅人邸跡の可能性がある場所の一つですと紹介しました。

現在は「花鳥山 佛心寺」が建立されています。

花鳥山 佛心寺

大友旅人邸跡であったろう場所に建っている「花鳥山 佛心寺」

宗派:浄土宗の一派の時宗

本尊:阿弥陀仏

創建:戦後

住所:太宰府市観世音寺4-3-1

多数の柱は大伴旅人邸が建っていた館跡であろうと推定されます。

この佛心寺は単なるお寺としてだけではなく日本を代表する俳句の高浜虚子の「ホトトギス派」の道場として建てられました。

本堂

花鳥佛心寺の看板が架けてある三本柱は大伴旅人邸跡を表しているそうです。

 

虚子堂佛心寺縁起

説明板

「昭和24年1949年ホトトギス同人で時宗の僧河野静雲(福岡市博多区の一行寺に生まれ、九州俳壇の重鎮であった)は、この月山の敷地を柳河の同人木下三丘子の嗣子木下潤氏から俳句の道場を建立せんものと提供されて、この地に庵を結んだ。      

河野静雲の師である高浜虚子は太宰府をこよなく愛し道場建立に尽力、多くの掛軸用の句を揮毫されて、その浄財と全俳人の貧者の一燈を捧げて、この寺を建立された。高浜虚子により寺名は花鳥山佛心寺と名付けられ、また御堂を虚子堂とされた。

松尾芭蕉、正岡子規、高浜虚子の流れを汲む西日本唯一の俳句の道場であり、またホトトギス派の本山としてその名を留めている。高浜虚子愛用の帯をこの地に埋め帯塚としており、俳人たちの崇敬を集めている」。

高浜虚子

高浜虚子(1874~1959)俳人・小説家。松山生まれ。本名、清。正岡子規に師事。「ホトトギス」を主宰、客観写生・花鳥諷詠を主張し、俳句の普及と後輩の育成に努めた。

ホトトギス派とは

正岡子規の死後、俳壇は高浜虚子を中心とする「ホトトギス派」と、河東碧梧桐を中心とする「新傾向句」に分かれる。「新傾向句」が五七五調や季題にとらわれない新しい句作を提唱したのに対し、「ホトトギス派」は五七五の定型調や季題といった伝統を守り、客観写生を深めることを主張した。その後、大正~昭和初期には「ホトトギス派」が俳壇の主流となり、そこからさらに「馬酔木」、「天狼」、「人間探求派」などが派生していきます。

 

「虚子堂と 名づけしことよ 萩芒(はぎすすき)」作 星野立子(高浜虚子の次女)

 

御廟(納骨堂)

 

(参考)高浜年尾(高浜虚子の長男)の作

句碑「紫は 水に映らず 花菖蒲」

太宰府天満宮 菖蒲池

月山とは

佛心寺の西側にある丘。「辰山(ときやま)」とも言われます。かつてここに漏刻(水時計)が設置され、鐘と太鼓で時を告げていたとされます。

 

帯塚碑とは

太宰府展示館裏、月山の麓にあります。

 

説明板

「俳句会を代表する人物である高浜虚子が愛用した『「博多帯』を埋めたことを記した石碑です。月山の脇に『花鳥山佛心寺』があります。

この寺は『ホトトギス』同人の河野静雲が建てた寺で、高浜虚子を祀る虚子堂があり、俳句の道場にもなっていました。

虚子が愛用していた『博多帯』を静雲に託し、佛心寺のそばに埋めてほしいと願ったことにより昭和29年10月に建立されました」。

 

①佛心寺が建っているこの地区は梅花の宴の舞台であった大友旅人邸跡の可能性がある場所の一つです。

②この佛心寺は虚子堂といって松尾芭蕉、正岡子規の流れを汲む日本俳壇を二分する一派の主宰者高浜虚子の西日本唯一の俳句の道場であり、またホトトギス派の本山となっていました。

その後、大正~昭和初期には高浜虚子の「ホトトギス派」が日本俳壇の主流となりました。    

俳句関係者・愛好者の間だけでなく全国的にも有名な道場だったようです。

「句会は30年程前まで行われていましたが、一日中句会があっておりお寺本来の行事が行えないので観世音寺を紹介し、その後どうなっているかはわかりません。虚子堂は今は御廟になっています」とのことでした。住職談。

住職の交代や時代の移り変りで変わっていくのかもしれませんね。

大友旅人邸跡の可能性が高いここ佛心寺(太宰府政庁跡東側の月山東地区官衙跡)や太宰府政庁跡を南下した朱雀大路の東側(大宰府条坊 榎社・客館周辺)にも是非足を延ばしていただきたいと思います。

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塾長より

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