こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。
2020年5月12日の記事を改訂
梅花の宴の舞台となった大伴旅人邸はどこだったのか?
大伴旅人(665~731年)は
奈良時代の政治家,歌人。家持の父。727年(63才)大宰帥 (だざいのそち) となって九州に下り、翌728年(64才)大宰府で妻を亡くし、730 年(66才)梅花の宴を開催。その後大納言に昇進して帰京。歌は大宰帥になってからのものがほとんどである。731年67才で死去。
●2019年(令和元年)4月1日、政府は新元号を「令和」と発表。
「令和」の典拠は1300年余り前に編纂された日本最古の歌集「万葉集」に収められた「梅花の歌三十二首 序文」から引用。
●発表後の太宰府市のコメント(要約すると)
「ここ太宰府の地で行われた『梅花の宴』を主催したのは大伴旅人です。彼は728年大宰府の長官として赴任し730年に西海道の官人たちを自ら住まう邸に招きこの宴を開きました」。
梅花の宴(大宰府展示館)
左下に玉石敷の溝

●政府も太宰府市も大伴旅人邸がどこにあったかについては発表していません。
- 太宰府に縁のある万葉集が謳われた梅花の宴の舞台となった大伴旅人の邸跡については、現在までハッキリとしたことはわかっていません。
- 旅人が詠んだいくつかの歌に「わが岡に・・・」とあることから、丘陵に面した場所に所在していたことがうかがえます。
「わが岡に さ男鹿来鳴く 初萩の 花嬬(はなつま)問ひに 来鳴くさ男鹿」
(通釈:わが家の近くの丘に雄鹿が来て鳴いている。今年初めて咲いた萩の花を妻(花嫁)に求めに、鳴きにやって来る雄鹿よ)
- 太宰府市によりますと、梅花の宴が開かれた邸の場所については諸説残されているそうで、次の三つ内のどれかではないかとのことです。
以下は梅花の宴が開催された大伴旅人邸跡の可能性が高い順
①大宰府政庁跡東側の月山東地区官衙(役所)跡
月山東地区官衙跡(建物は現在の佛心寺)
佛心寺前の広場

玉石敷きの溝(大宰府展示館内)
奈良時代


この玉石敷きの溝は通常の掘ったままの素掘りものと違って底にはきれいな石を敷き詰めて、長さは3~4mのこれだけの長さで、深さもわずか2~30cmと浅いため、現在太宰府天満宮で行われている曲水の宴のような特別な儀式や行事に使われたのではと考えられています。
素堀りの溝(大宰府展示館内)
当時の通常の溝


理由:大宰府展示館東側のこの地区には複数の建物跡やそれらを囲む柵跡が確認され大変大きな区画(110m×90m)が存在したことが明らかになっています。
また月山東地区に隣接する大宰府展示館で公開されている玉石敷きの溝は、通常のものと違った構造のため、現在太宰府天満宮で行われている曲水の宴のような特別な儀式や行事に使われたのではと考えられています。このことから、大宰府の長官であった帥の邸だったのではないかと考えられています。
この場所は正殿の東、南大門の東横に位置し、日当たりはよく正面から正殿に入り、奈良時代の玉石敷の溝が発掘されており可能性は一番高いと思われます。
②太宰府政庁跡を南下した隈麿公のお墓周辺(榎社・客館周辺)
現在

この周辺には大宰府の高官の屋敷があった様子がうかがえます。

可能性が高い理由は
周辺からは平安時代のものではあるけれど太宰府では長官であった帥しか身につけない革帯を飾る白玉帯も見つかっており、この一帯に帥宅があったのではないかと考えられる物証ともなっています。
この小高い丘は眺めがよく、帥として外国使節を個人邸にもてなす場合も客館から近く、また坂本八幡宮と違って正面から政庁に入ることができることも大きな理由と考えられます。
菅原道真公の御子息隈麿公の墓
③坂本八幡宮周辺
現在

理由:この説は九州帝国大学教授を勤めた竹岡勝也氏が戦後に発表した学説がきっかけとなりました。帥の邸が存在したことを想像できるという推定で語られたのですが「比定地」だという形で広まってしまいました。その後の発掘調査でも、祭祀用とみられる土製馬型「土馬(どば)」などが出土したものの長官クラスの大規模な建物跡などはまだ確認されていません。
「比定地」:ある土地が一定の土地として認められない場合、他の類似の土地と比較して、その土地がどういうものであるかを判断すること。
ここは政庁の正殿裏になり正殿に行くにも裏側から入り、外国の使節を個人邸に招くにしても客館から遠く、使節に見せるほどの景色もなく可能性は低いと思われます。
以上により大伴旅人邸跡と思われる可能性の高い順に
①大宰府政庁跡東側の月山東地区官衙跡
梅花の宴を催したであろう溝は旅人と同じ時代の奈良時代のもので場所としてもここと特定できるから信憑性は高いと思われる。
②大宰府政庁跡を南下した隈麿公のお墓周辺(榎社・客館周辺)
発掘された白玉帯は平安時代のもので奈良時代にもあったかもしれないのと身に着けているから移動可能だから場所の特定は難しいので可能性は低くなると思われる。
③坂本八幡宮周辺
上記の説明通り。
以上により可能性の高い順に①、②、③と思われます。
皆さんも現地を訪れてご自分でも検討してください。三つの箇所は距離的にも近いので楽しいと思います。
▶fukuda0917@yahoo.ne.jp
塾長より
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お早うございます。あの時代に67歳まで存命だったなんて長生きですね。坂本神社の旅人邸は、真実は難しいですね。3本柱は見たことありませんでした。ありがとうございました。
マンデーかやさんコメントありがとうございます。
旅人は63才で太宰府に来て、道真公57才で来てますので今とかわらないくらいの年令で勤めてますよね。
榎社の少し南には、8~9世紀に大宰府に来た外国使節に応対する施設であった客館の跡 (赤丸) が発掘され、平成26年に国史跡指定を受けて、現在、保存と整備が進められています。ここから真北に200M程のところに道真公の息子の隈麻呂のお墓が小高い丘(岡)に祀ってあります。政庁は真北にもちろん博多、筑紫方面も望める場所です。道真公が901年に左遷され朽ち果てた南館(榎社)に入りましたがこの一帯は旅人などの住まいがあったと思います。私見で述べましたが③案だと考えました。
水城さんコメントありがとうございます。位置的にも白玉帯も見つかっており可能性大と思われますね。
今日、自転車で走りました。丁度、写真を撮り終えて帰ろうとしたら偶然に榎地区の墓守の大槻さんに会いました。彼もここが梅花の宴の里だと言われました。
旅人も朱雀通り政庁に向かっていたと思います。坂本八幡は裏手、また月山は横手にあり要人の宿舎があったとは思えません。客館から榎の大通りから朱雀門を抜けるのがしきたりと考えます。 🙂
うっちゃんコメントありがとうございます。当時権威を誇る長官の通る道としては客館、大通り、朱雀門が相応しいような気がしますね。
行列でお参りに来た人達に、このフログを読んで頂きたいと思いましたね❗
由美子さんコメントありがとうございます。
そうですね。特に太宰府にお住まいの方には是非とも知っておいてもらいたいと思います。
政庁跡を観ると百済の王宮跡とうり二つで風水を重んじて作られています。よって旅人など要人は朱雀門を通り通勤したと察します。坂本八幡からは有り得ないと考えます。😊
ひ−さんコメントありがとうございます。郷土歴史に詳しい方はみなさん榎社界隈を推されますね。坂本八幡神社の可能性は低いようですね。
[世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり]とは大宰府で共にしてきた妻を亡くしたときの旅人の詩です。この時代、火葬か土葬かの分かれ目ですが妻のお墓もしくは祀ってある場所が見つかれば旅人の住まいがどこか?縮まってくるかと思います。隈麻呂の墓守の知人から、この場所で古墳?に匹敵する人骨が出たと云ってありました。近代、ここは納骨堂が建てられています。
ひ−さんコメントありがとうございます。隈麿公の墓の近くの納骨堂が旅人の妻の墓の可能性ならここが旅人邸宅だった可能性が高くなりますね。
いつも読みながら塾長の熱心さ、詳しさに驚かされます。歴史は詳しくないですが、坂本神社が大伴旅人の邸宅とばかり思ってました。67歳まで生きたとは昔の人としては長生きですね。ありがとうございました。
栗原さんコメントありがとうございます。道真公が57才ですから長生きしてますね。
ブログ楽しく拝見させて頂いています。
大伴旅人様の邸宅跡は、???でぼかしてて、
コロナウイルスに負けないように頑張れた後に、候補地のあちらこちらを、史跡解説ボランティアの方々が史跡巡りで引率されるとまたまた、太宰府市の人気戻ればいいですね。
665年
大伴旅人様は都の貴族の家に産まれました。時は、白村江の戦いで負けましたあとの国を守るため、水城や大野城や基肄城を九州に築いていましたね。
672年
旅人様は7歳
旅人様の父は大伴安麻呂様
日本を2分するような大きな地図戦い!壬申の乱で大海人皇子【のちの天武天皇】共に戦い大活躍しました。
旅人様は武門の家柄の子供としてたくましく育てられてますね。
701年
旅人様は37歳
立派な大人となり政治家として武人として将来を期待されていましたね。
この年、のちに旅人様と親友になる山上憶良様は遣唐使として中国に旅立ちました。
710年
旅人様は46歳
将軍に命じられ、都が平城京へ移さ
れました。
もっと活躍されますよ!
旅人様は新しい都で行われたお正月の儀式で将軍として兵隊を率いましたね。
凄いね!
追伸ですみませんです。😿
720年
旅人様は56歳
当時【隼人】と呼ばれていました人々の抵抗を鎮めるために
※持節大将軍として都から南九州【鹿児島県】へやって来ましたね!
持節大将軍とは
朝廷から節刀を与えられて、辺境の反乱を鎮圧するため一軍を率いた大将軍!
大宰府の勉強始めたばかりの時に、この言葉を聞き、格好いい!と旅人様尊敬。
貴族の家に!武人の家に産まれても権力争いには勝てないようですね😿
727年
旅人様は63歳になっていました。
旅人様は大宰府の長官【大宰帥】に
任じられましたね。
武人として活躍されても高齢者ですね。
都から遠くの九州まで人生2度も!
子供二人
家持、書持兄弟と奥様も同行トノ資料ありますが。
キッと淋しい心境ですね😿
痕は皆様ご存知の事柄となり、
梅花の宴を開く前年に都では
皇族の長屋王と貴族の藤原氏との間で、権力争いが起こり、長屋王一族殺害されますね。
旅人様は遠く大宰府に居ても都の政治の事が気になっていましたので、とても悲しかったし、都には戻れないかもと思われたかもですね!
梅花の宴は長屋王事件でその後の権力争いに巻き込まれないように、
大宰府圜内役人の氣を引き締めるために、宴を開いたと思われます?!
言い伝えでは奥様の遺骨は大宰府政庁から遠くのお寺に葬られたとの記述ありますが、
古い地図をあとで塾長様にメール添付させて頂きますね。
長々すみませんです。
啓子さんの造詣の深さに驚嘆しています。ブログを参考に勉強しようと思います。
大宰府条坊の中心部の丘陵上にある、古代寺院跡です。地名は「般若寺」といい、これが寺名とみられます。
記録によれば、7世紀中ごろに筑紫大宰府の長官だった蘇我日向(そがのひむか)が、ときの孝徳天皇の病気平癒を願って、654年に建立した寺院と記されています。この寺は私寺として建立されましたが、のちに国分寺などの官寺に準じた扱いを受ける寺院となったようです。般若寺は隈麻呂のお墓、もしくは客館跡から徒歩で10分程度にあります。旅人の妻のお墓の候補になりませんか?(笑)
うっちゃんコメントありがとうございます。般若寺も妻の可能性がありますね。ここは岩屋城の戦いの薩摩軍の本陣跡でもありましたね。
すっかり坂本八幡宮だと思っていました!
つるさんコメントありがとうございます。東京の報道陣が発表しましたので坂本八幡宮と思うわけですよね。
塾長様
お待たせしました😂
大宰帥大伴旅人様は、亡き奥様
大伴郎女様の為に、
平等寺を建立しています、との記述が〜
大宰府旧蹟全図の南図にありますが!
方角や地名がイマイチ地理不案内なので塾長様の方に南図の写メをお送りさせて頂きますね。
高良山や九千部山や脊振が見える様な場所?
啓子さんのコメントと南図の写メ(平等寺の地図)をブログに追加でアップさせていただきました。ありがとうございました。
いつも楽しみにブログ開いて勉強しています。
太宰府旧蹟全図の南図に色々軍団らしき地名が書かれていますね!
チクゼン大野
チクゴ大野
気になりますね!
基肄城の警備していたのかも?
色々ご教授よろしくお願いします。🙏
啓子さん基肄城の警備かもしれませんね。どなたか御存じの方はご教授よろしくお願いします。
追伸ですみません。
太宰府旧蹟全図南図にありますが
旅人様が亡き奥様のために平等寺を建立、の、横に!
※兼異襲来之節勢溜也※
平等寺建立は、軍駐留地?でしょうか?
敵は?
旅人邸宅は長官は馬に乗って行ける場所で
高い場所は
大野城の土塁に護られた、焼米ケ原の尾花礎石群の辺りでしょうか?😂
米倉も武器蔵もあるし〜です。笑笑
啓子さんコメントありがとうございます。そうかもしれませんね。
しかし詳しいですね!
恐れ入ります。
啓子さんの南図には旅人が亡妻の為に平等寺を建てたとありますが異なる説明もありました。以下です、「山神ダムから山の方へ行くと平等寺という村がある。
その昔、大宰の師として同伴した大伴旅人の妻、大伴郎女が平等寺を建立した。
戦国時代にその寺も焼き払われたという」よって平等寺は現存しませんがお墓は何処に?ーーーー。
マスコミの報道ってある意味怖いですね。しっかりと取材してるのかと、思いました。でも、塾長の記事を拝見させて頂き佛心寺パート2を見るのが楽しみです!
たろうさんコメントありがとうございます。佛心寺はこちらをご覧ください。https://dazaifumiryoku.com/private/21071/
『旅人の館はどこか?』 確証の無い歴史の話をするのは、悩ましいですね。
この話について私が聞いたのは、政府から「令和」の発表があった夕方、太宰府市役所に文化庁から「太宰府の万葉集から」
と、連絡があったそうです。当時の太宰府市長が文化財関係者から話を聞き記者会見を開きました。候補地としての意見は
7件あり、主に塾長が選んでいる3件を思いながら、『諸説ありますが、坂本神社の辺が***』と発表。翌日 関東方面で
報道陣が、『諸説ありますが***』を抜かし坂本神社と報道されてしまい、『坂本神社』が一人歩きしてしまいました。
確証がなく、大宰府市も反論ができなかったのでしょう。
以前 私がこの他のコメントに書きましたが、日本の米作は紀元前から、福岡 板付遺跡、佐賀唐津 菜畑遺跡が最初と
されています。しかし 最近の検証法では、4世紀~5世紀が最初の米作という論文がでました。確証のある反論がでないと、
この4~5世紀説が正論となるそうです。私は最近古代史の勉強を始めましたが難しいですね。
詩に詠まれた言葉・出てきた景色・環境。又、帥(そち=長官)としての通勤・邸宅から考えると、坂本神社ではないと思い
ます。現在 南の館(榎社)前から政庁跡に向けて、道路拡張のため発掘が行われています。何が出てくるか 楽しみですネ。
もの好きなジイージさんコメントありがとうございます。梅花の宴が開催されたのが730年、この場所さえ特定できてないのだから、ましてや4世紀~5世紀のころは特定できないでしょうね。そこに歴史好きは自分の想像の余地があるから楽しいのかもしれませんね。道路拡張のための発掘調査が行われているそうで楽しみですね。