こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

梅花の宴の舞台となった大伴旅人の邸宅はどこだったのか?

大伴旅人(665~731年)は

奈良時代の政治家,歌人。家持の父。727年(63才)大宰帥 (だざいのそち) となって九州に下り、翌728年(64才)大宰府で妻を亡くし、730 年(66才)梅花の宴を開催。その後大納言に昇進して帰京。歌は大宰帥になってからのものがほとんどである。731年67才で死去。

平成31年(2019年)4月1日、政府は新元号を「令和」と発表。

「令和」の典拠は1300年余り前に編纂された日本最古の歌集「万葉集」に収められた「梅花の歌三十二首 序文」から引用。

発表後の太宰府市のコメント(要約すると)

「ここ太宰府の地で行われた『梅花の宴』を主催したのは大伴旅人です。彼は728年頃大宰府の長官として赴任し730年に西海道の官人たちを自ら住まう邸宅に招きこの宴を開きました」。

政府も太宰府市も大伴旅人邸がどこにあったかについては発表していません。

  • 太宰府に縁のある万葉集が謳われた梅花の宴の舞台となった大伴旅人の邸宅跡については、現在までハッキリとしたことはわかっていません。
  • 旅人が詠んだいくつかの歌に「わが岡に・・・」とあることから、丘陵に面した場所に所在していたことがうかがえます。

  「わが岡に さ男鹿来鳴く 初萩の 花嬬問ひに 来鳴くさ男鹿」

  • 太宰府市によりますと、梅花の宴が開かれた邸宅の場所については諸説残されているそうで、次の三つ内のどれかではないかとのことです。

①太宰府政庁跡東側の月山東地区官衙(役所)跡(現在の佛心寺)

理由:大宰府展示館東側のこの地区には複数の建物跡やそれらを囲む棚跡が確認され大変大きな区画が存在したことが明らかになっています。

また月山東地区に隣接する大宰府展示館で公開されている玉石敷きの溝は、通常のものと違った構造のため、現在太宰府天満宮で行われている曲水の宴のような特別な儀式や行事に使われたのではと考えられています。このことから、大宰府の長官であった帥の邸宅だったのではないかと考えられています

月山東地区官衙跡(建物は現在の佛心寺)

 

玉石敷きの溝(大宰府展示館内)

上記のようにこの溝は、通常のものと違った構造のため、現在太宰府天満宮で行われている曲水の宴のような特別な儀式や行事に使われたのではと考えられています。

 

 

素堀りの溝(大宰府展示館内)

当時の通常の溝

 

 

②坂本八幡宮周辺

理由:この説は九州帝国大学教授を勤めた竹岡勝也氏が戦後に発表した学説がきっかけとなりました。帥の邸宅が存在したことを想像できるという推定で語られたのですが「比定地」だという形で広まってしまいました。その後の発掘調査でも長官クラスの大規模な建物跡などはまだ確認されていません

「比定地」:ある土地が一定の土地として認められない場合、他の類似の土地と比較して、その土地がどういうものであるかを判断すること。

 

③太宰府政庁跡を南下した朱雀大路の東側(大宰府条坊 榎社・客館周辺)

理由:この周辺には大宰府に勤めた高官の屋敷が周辺にあった様子がうかがえます。

また、周辺からは大宰府では長官であった帥しか身につけられなかった革帯を飾る白玉帯も見つかっており、この一帯に帥宅があったのではないかと考えられる物証ともなっています

(参考:古都大宰府保存協会)

菅原道真公の御子息隈麿公の墓がある小高い場所ではないかといわれています。

菅原道真公の御子息隈麿公の墓

 

 

2019.9.12西日本新聞

新元号『令和』が発表された当初、太宰府政庁跡の北西に位置する坂本八幡宮を「大伴旅人邸跡」と断定するような報道が最初に流れた。『大野城市のふるさと館』館長赤司善彦氏は『東京発のニュースだったようだけど不思議でならなかった』と振り返る」

「約30年前、九州歴史資料館の発掘技師として坂本八幡宮周辺を堀った赤司氏は土製馬型やミニチュアかまどが出土したことから『陰陽師のような祭祀担当の官人がいたのではないか』と考える。やがて坂本八幡宮が旅人邸跡と断定する報道は影を潜めた」。

 

以上から梅花の宴が開催された邸宅跡の可能性が高いのは

①の太宰府政庁跡東側の月山東地区官衙跡(現在の佛心寺)と③の太宰府政庁跡を南下した朱雀大路の東側(大宰府条坊 榎社・客館周辺)です。

②の坂本八幡宮からは確たる物証が見つかっておらず想像の域を出ていないようなので可能性としては低いと思われます。

三つの候補地があるのに何故観光客や報道陣は坂本八幡宮に殺到しているのか。

その理由を太宰府市に問い合わせてみましたら「市は大伴旅人邸跡の候補地は上記①②③を考えています」

「観光客や報道陣が坂本八幡宮を訪れるのは上記西日本新聞掲載の元九州歴史資料館の赤司氏と同じ意見で「坂本八幡宮を大伴旅人邸跡とするような報道が最初に東京で流れたからでしょう」とのことでした。

これが既成事実となり観光客、報道陣は他の二ケ所には目もくれず坂本八幡宮に殺到し、市も間違いではなく他にもありますよとも言えず交通整理はしていかないといけないということで大伴旅人邸跡は坂本八幡宮と思われてしまったということのようです。

 

大伴旅人邸の候補・現在の佛心寺

小高い丘の上に建っています。

 

丸い三本柱で大伴旅人邸宅の建物跡を表現しています。

 

 

 

 

想像を超える新しい発見でした!

この地区が梅花の宴の舞台であった大伴旅人邸跡だったのではないのか。

大伴旅人邸跡の可能性が高い①のここ太宰府政庁跡東側の月山東地区官衙(役所)跡(現在の佛心寺)や③の太宰府政庁跡を南下した朱雀大路の東側(大宰府条坊 榎社・客館周辺)にも是非足を延ばしていただきたいと思います。

なお、次回現在の佛心寺はパートⅡでアップ予定です。お楽しみにご期待ください。

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塾長より

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