こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

先日加藤清正公の菩提寺 熊本の「本妙寺」に行ってきました。

本妙寺

本妙寺は日蓮宗で天正13年1585年年加藤清正公が父君清忠公菩提のため大阪に建立されたのに始まる。

天正16年1588年清正公が肥後の太守になったのに伴い熊本城内に移された。

慶長16年1611年清正公が逝去し、慶長19年1614年この御廟所の地に移転再建された。

山門

本妙寺本堂

 

日蓮宗

南無妙法蓮華経

 

加藤清正公御廟所(お墓)

 

 

加藤清正公銅像

熊本の城域を、見下ろす様に屹立する銅像は圧巻です。淨池廟裏手から始まる300段の階段を昇り最上部に且つ中尾山(本妙寺山)の中腹に熊本の城域を見下ろすように屹立しています。

 

加藤家の墓所

六喜廟碑

 

 

六喜廟碑より

純中至誠の清正公の実力と仁望をおそれた徳川幕府が、嗣子忠広公一族を追放した暴逆に、遺臣らが討幕を進言するも忠広公はこれを退け、ひたすら父の遺訓の真意を体し、一家の利よりも国家の安泰を願って、天命に従い隠忍の生涯を全うされた。三百年の後、正義あらけき御代を迎え、義人の熱烈な志に県民こぞって力を合わせ忠広公顕彰の大義が実現、その霊は永久に父君の本廟に自受法楽されることとなった。

六喜廟というは第一の喜びは、忠広公ら【五霊位】が晴れて故郷に還られた事。第二の喜びは、これより本妙寺が代々よくお祀りを全うされる事。第三の喜びは、忠広公の浄志が成就した事。第四の喜びは、加藤家の遺臣及び旧領地の熊本県民が加藤家全霊を御祀りができるようになった事。第五の喜びは、清正公の遺徳がいよいよ輝きわたる事。第六の喜びは、日本歴史のけがれが除かれ、正義輝く国となった事である。

法華経の信者清正公の余光により、この六つの喜びを一本の妙に開会された。法妙なる故に人貴く、人貴きが故に処も貴い、天下こぞっての喜びである。

上記に【五霊位】とあるが、その事について先ずは忠広で、寛永9年(1632年)に改易されて、出羽国(山形県)庄内へ配流。当地で生涯を終えたが、生母の正応院も同行している。次いで長男光正(14歳)は、飛騨国(岐阜県)高山へ配流。更に次男正良(3歳)生母法乗院と共に上州国(群馬県)沼田へ。以上の5名を五霊位とするのである。 

プロ野球巨人軍吉原捕手之碑

第二次世界大戦前、プロ野球巨人軍に於いて伝説の捕手として名を成した選手「吉原」氏の墓がある。

昭和12(1937)年 熊本工業高校を卒業後、かって巨人軍が9連覇を遂げた時の監督も務めた川上氏と共に巨人軍に入団し大活躍。ところが、太平洋戦争時に召集を受け、戦地のビルマ戦線ウントにて戦死をした人である。

 

昭和三十七年三月建立

巨人軍

巨人軍監督:川上哲治

父:吉原喜代松

 

熊工会

熊工野球後援会

熊工野球OB会

平成14年11月改修

 

熊本在住時一度当本妙寺を訪れ吉原捕手の墓の記憶だけがありました。

今回改めて訪問し本堂、御廟、清正公の銅像を見て、また加藤家がなぜ二代で断絶したのかがわかり大変有意義な旅になりました。

次は加藤清正公築城の熊本城が修復した暁に訪れようと思っています。

 

PS1

B氏が持っている大正13年参謀本部発行の日本戦史(朝鮮の役)から清正軍の進行ルート図です。長政、小西行長、小早川等と比較しても断トツ活躍したのが分かります。(現北朝鮮の奥地まで進行したのが分かります)

 

 

 

PS2

実はB氏が住んでいたところは福岡市東区名島ですが名島城跡の北端に位置した妙見島です。

今は埋め立てて島の面影はありませんが砂浜で秀吉や石田三成らが茶会した処や井戸の跡(私の駐車位置横に石碑あり)が残っています。

 

名島城、茶会、井戸

昔は潮が引いたときに歩いて渡れていました。海が割れるのよーーー♪ 🙂

 

秀吉茶遊井戸

 

妙見島横の名島水上飛行場にリンドバーク夫妻

 

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塾長より

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