こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。
太宰府天満宮の案内所の手前を右に曲がるとつきあたりに山門、鐘楼が見える。
2020.5.15の記事を加筆修正。
光明寺
住所:福岡県太宰府市宰府2-16-1
光明寺(こうみょうじ)は、福岡県太宰府市にある臨済宗東福寺派に属する禅宗寺院。
山号:神護山(じんごさん)。

光明禅寺の名で呼ばれることもある。
山門

一滴海之庭の碑

通用門

歴史
1273年聖一国師の門下にあった鉄牛円心によって建立され開山。
江戸時代には太宰府天満宮の緇素(しそ・天満宮に仕える人々とその家族)の菩提寺として、1616年(元和2年)に再興されて、1856年(安政3年)7月再営された天満宮の結縁寺。
境内
光明寺は別名「苔寺」とも呼ばれ、その名のとおり庭園は碧く苔むし、重森三玲により作庭された前庭を七・五・三の十五石で光の字に配石された仏光石庭、本堂の裏庭は、青苔は大陸と島、白砂は水と大海を現し、長汀曲浦の見事な線で画出された枯山水の一滴海之庭。
仏光石庭

七・五・三の十五の石が光の字に配置されている。

「光の字」の配置図

一滴海之庭



また、秋には紅葉が映え、一段と風情が楽しめる。
昔は人が少なく、今は入室禁止になった奥の茶室に座ってお庭をゆっくり眺めることもできましたが、最近は外国からの観光客が多くなり、建物の劣化や庭に入ったりすることを危惧して、営業日も営業時間も不定期になっている。
シャクナゲ
お寺によると4月20日ころから連休前までくらいが見ごろ。

紅葉のころ



晩秋のころ

秋の紅葉もキレイですけど、新緑のころもいいですよ。
光明寺は観光客よりも信徒さんを大事にされている硬派なお寺です。
少しずつ見学が制限されてきているので、行ける時に行ったほうがいいと思います。
最近は営業日も営業時間も[不定期]になっています。
▶fukuda0917@yahoo.ne.jp
塾長より
いつも記事をお読みいただきありがとうございます。
もしよろしければ記事の一番下にある「コメントを残す」より
コメントを書いていただけますと、記事を書く励みになります。
これからも太宰府の魅力をお伝えしていきますので
応援よろしくお願いします。

新緑の頃、2回伺い心癒されました。
カメラが趣味で秋に行きたいと思った時、急に中国の方多くなりまして
残念ながらそれから伺っていません。コロナで当分静かな時がありますでしょうから?素晴らしい写真を拝見しまして、是非もう一度・新緑と紅葉の時期に伺いたいと思いました。
ちあきさんご覧いただきありがとうございます。観光客の少ない今ご堪能ください。。天満宮や光明寺の新緑の頃も目にしみると思います。
光明寺には学生の頃講義の合間におじゃまさせていただきました。もうずいぶん前になりますけどここで見た美しく行き届いた庭園は今でも決して忘れられません。また行きたいなぁと思っています。
のりこさんコメントありがとうございます。光明寺新緑の頃、秋の紅葉の頃特にお勧めですね。
学生の頃ですか。年年歳歳花相似たりかもしれまけんけどそれがまたいいのかもしれませんね。
光明寺のお庭は、京都のお寺のそれに似て、しっくり落ち着いた風情がありますね。
新緑の頃も紅葉の頃も行きました。
行き合わせた方々みなさん座って、静かに美しい庭を堪能されていました。
と、そこへ3.4人の若い女性の集団が、ガヤガヤ声高にお喋りしながら入って来ました。中国語のようでした。インバウンドが言われ始めるずっと前のことです。
へえー、こんなとこにも中国人が来るのか、と驚きました。
彼女たちは、日本のお庭の風情は感じられたでしょうか。
味わい方を知って欲しいですね。
里の秋さんコメントありがとうございます。
おっしゃる通りみなさん思い思いのもの思いに浸っているときにワイワイさ騒がれる興ざめしてしまいますね。
なんとも素敵なお寺ですね、新緑、紅葉、お花など写真も豊富、楽しいブログです、何時間そこにいてもそれだけで幸せの気分になれそうです、そこにワイワイガヤガヤと入って来て、庭に降りて写真を撮ったりされては、バカヤローと叫びたくなります、観光公害ですね、お客様は神樣などと言ってはいられません、小学校から道徳敎育、観光敎育を徹底して欲しいものです、今では日本人も外国人も必要です、観光は静かに鑑賞したいものです。
福寿草さんコメントありがとうございます。
近隣諸国では日本に関する間違った教育を子供のころから国の方針として行っている国があるようですけど先ずは社会道徳、マナ−教育をしてほしいものですね
本日、光明寺に行ってきました。最近、閉まっていることが多いようなので、事前に電話し、日時の指定を受けての訪問です。昨年、福田塾長に教示いただいた通用門から入り、新緑が映える枯山水の庭園を鑑賞した後、明治の初め安楽寺天満宮から移された観音堂及び本堂に安置されている薬師如来坐像を拝観しました。他に来観者がなく、喧騒とかけ離れた静寂の空間を占有できました。
ところで、昨年11月、太宰府の紅葉の名所【天開稲荷神社】のコメントで、太宰府天満宮内に残る神仏習合時代の唯一の遺構である相輪樘について触れました。「太宰府市史 建築美術工芸資料編」には、「明治初年の廃仏毀釈で撤去されることとなり、一時、明治七(一八七四)年に博多の浜口町に移築された。同二十二年に旧位置であった東花園に移築再建され、さらに昭和五十二(一九七七)年に現在地に移された。」(281頁)と記されていました。しかし、当時の時代背景に照らし合わせると、「明治七(一八七四)年に博多の浜口町に移築された。」という記述に腑に落ちないところがありました。
廃仏毀釈運動は、明治新政府の「神仏分離」政策をきっかけに始まったものですが、その行動は明治4(1871)年をピークに沈静化に向かっています。そうした状況で、相輪樘が明治7年に博多の浜口町に移築されたのは何故か。移築された具体的場所はどこなのか。その後の太宰府天満宮内への再移築にどのような経緯があったのかという疑問が生じたのです。そこで、相輪樘の移築について、次の3点を「太宰府市公文書館」に照会しました。
① 明治7年に博多の浜口町に移築されるまで、太宰府天満宮内にあったのか
② 博多浜口町のどの場所(施設)に移築されたのか
③ 明治22年、どのような経緯で太宰府天満宮内に再移築されたのか
太宰府市公文書館の専門職員から、次の回答がありました(一部を抜粋)。
・相輪等の脇柱(四天柱)には「明治七年ニ 浜口町浜ヲ 大浜町弐丁目ト改正」(509頁)とはありますが、あくまでも町名変更についてで、移転した年とは記されていません。「明治7年」という記述が何に依ったものなのかは分かりませんでした。
・相輪橖の東側に立つ「相輪橖碑」には「相輪橖弘化四年の建設 明治二年廃毀蔵之 博多大濱町二丁目今茲 明治二十二年一月博多廣募同志……」と記されています。ここから分かるのは、明治2年に博多大浜町2丁目がこれを蔵す、とあるので、もともとの発願主であった浜口町浜の連中が一時引き取ったのか?ということが考えられます(大浜町2丁目に再築はしていなかったかもしれません)。
・『福陵新報』明治21年12月13日の記事に「輪堂再建 太宰府神社境内には古来輪堂の設けありしを維新の際取除けられたるが 曩に博多大濱町竹下善平氏が該堂儀を其筋へ出願し聞届けられ居たりしも事情ありて今日まで遷延し居たりし」とあり、明治22年以前に内務省社寺局や県当局とのやり取りが為されていた(「其筋へ出願し聞届け」)、ということは推察できます。また、この記事や明治22年に出てくる記事にも「再建」や「奉納」という言葉が使われているので、やはり、一時的に博多の方に建てられていた、ということはなかったのでは、と考えます。
以上の同館専門職員の銘文等に基づく教示から、「明治7年に博多の浜口町に移築された」のではなく、明治2年に博多浜口町に引き取られ、保管されていたとの考察が事実に符合します。相輪橖は、菅公900年忌に当たる享和2(1802)年に、博多浜口町(旧町名)の人たちが中心となり、浄財を集めて建立されています。文政11(1828)年に台風で倒れ、弘化4(1847)年に再建されたときも、上記の人たちが協力しています。廃仏毀釈に伴い撤去された後の明治22年の再建には、これら奉納者の思いがあったことが想像的に理解されます。これにより、相輪樘の移築に関する疑問はおおむね解消しました。
話はそれますが、私は、歴史の授業で、江戸時代に「士農工商」という身分制度があったことを教わりました。しかし、近世史の研究が進み、士農工商という身分制度はなかったことが明らかになっています。そのため、2000年代には文部科学省の検定済教科書から士農工商という言葉は削除されました。義務教育で使用する教科書でも、事実と異なる記述があるようですが、歴史については、過去の出来事を徹底調査し、客観的な事実を取り出し、これを記述したものであってほしいものです。
最後に、光明寺には、秋にも訪れ、紅葉が映える風情を楽しみたいと思っています。
やまねこさんすごい研究論文ありがとうございます。面目躍如ですね。やまねこさんの疑問点に対する探究心には改めて敬意を表します。
相輪樘についてやまねこさんが導かれた結論をまとめてみますと
1802年(享和2年)博多浜口町(旧町名)の人たち中心で太宰府天満宮に建立
1869年(明治2年)廃仏毀釈運動により博多浜口町へ移築
1871年(明治4年)廃仏毀釈運動は当年をピークに沈静化に向かう
1889年(明治20年)太宰府天満宮で再移築
以上でいかがでしょうか。
詳細な経緯はやまねこさんのコメントをご覧ください。
PS士農工商についても勉強したいと思います。
長文のコメントにご返信いただきありがとうございます。太宰府魅力発見塾のWebサイトに出会わなかったら、太宰府の歴史等について関心を持つことも疑問に思うことも少なかったと思います。
先日、光明寺に行く前、太宰府天満宮に立ち寄りました。新緑の季節に太宰府天満宮の境内を散策するのは初めてです。インバウンドの多さに少々驚きました。そして、御本殿に向かって右手にある飛梅を見たら実がなっていないことに気付きました。北神苑に行くと、ここでも大半の梅の木に実がなっていません。
梅の木には、「表年」と「裏年」と呼ばれる現象があり、1年ごとに豊作と不作を繰り返します。今年の太宰府天満宮の梅のなり具合は、この隔年結果の影響だけではないように思えました。
梅の多くの品種は、自分自身の花粉では受粉しても実がならない性質があります。太宰府天満宮の境内には、約200種の梅があるので、異なる品種と受粉できる環境にあります。しかし、今年は、冬の寒さの影響で開花時期が遅れるなどして親和性のある梅との受粉がうまく行かなかったのかもしれません。
太宰府天満宮の例年の梅のなり具合は知りませんが、結実していない梅の木が多かったので、今年は、自然のリズムの変化による異変が生じているのだろうかと何となく気になりました。
やまねこさんのコメントのお陰で当ブログの価値が高まったような気がします本当にありがとうございます。
梅には表年と裏年があるのですね。飛梅をはじめ梅は毎年同じ量がなるものと思っていました。今度行ったときに見てみて収穫した梅はどうしているかも聞いてみようと思います。