こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。
先日地元の学生さんのガイドで夏目漱石、森鴎外、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)等近代日本文学の文豪たちが目にした太宰府のゆかりの地を案内してもらいました。
①夏目漱石と太宰府
1867年(慶応3)~1916年(大正5)49才
漱石は1895年(明治28年)第五高等学校(熊本)の英語教師として熊本に赴任、翌年9月に夫人と北部九州旅行の途中、太宰府へも足を運んでいる。3ヶ月前に結婚したばかりの夏目夫妻にとって、新婚旅行だったともいえる旅の途中、大宰府で作った漱石の俳句二句。
①反橋の 小さく見ゆる 芙蓉かな
太宰府天満宮を訪れた折に詠んだ句。
反橋(太鼓橋)

芙蓉は白または桃色の花を咲かせる植物ですが、ここで見たのは心字池にかかる鮮やかな朱色の反橋(太鼓橋)との対比が美しい白色だったかもしれない。夫人を芙蓉に例えた句という見方もある。
②古(ふ)りけりな 道風の額 秋の風
観世音寺 で詠んだ句。
観世音寺
斉明天皇(594年~661年、67才)の菩提寺

「古びているなあ、道風(書家・小野道風)の額(扁額)にかかる秋の風よ」という情景を表現し、歴史ある場所の寂寥感と秋の風情、そして書道の名家への敬意が込められた句である。
「道風の額」は、かつて観世音寺の南大門に存在した鳥居に掲げられていた額のことである。平安時代の能書家として有名な小野道風(おののとうふう)筆と伝わる寺号額で、現在実物は観世音寺宝蔵で展示されている。
②森鴎外と太宰府
1862年(文久2)~1922年(大正11)60才
鴎外は道真の漢詩「都府楼の詩」の背景にある道真の境遇への理解が、太宰府ゆかりの漢詩研究の源流に繋がっている。
祭神・菅原道真(845年~903年、58才)
901年太宰府に左遷され、903年太宰府で逝去、そのお墓が太宰府天満宮である。

道真の詩集「菅家文草」についても随所で言及し、太宰府という地を
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政治闘争からの失脚の場
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学者政治家・道真が精神的に昇華した場所
として位置づけている。
また軍医として九州の軍隊・衛生環境調査で太宰府周辺を視察したとされている。
③小泉八雲と太宰府
1850年(嘉永3)~1904年(明治37)54才
八雲は熊本に赴任していた1893(明治26)年~1896(明治29)年の間、数多く太宰府を訪れている。
太宰府天満宮

太宰府天満宮参道

八雲は太宰府を「古代の都の残り香がある地」として捉え、
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静寂で神秘的
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菅原道真の怨霊伝説に満ちた場所
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日本的な自然と宗教意識が凝縮された土地
として描写している。
特に、太宰府天満宮の参道や境内の雰囲気、道真公への信仰の篤さに強い感銘を受けたことを文章で伝えている。

④与謝野晶子・鉄幹夫妻と太宰府
1911年(明治44年)与謝野晶子と鉄幹は九州旅行で太宰府を訪問。
与謝野晶子
1878年(明治11)~ 1942年(昭和17年)64才
晶子は太宰府天満宮で
「海ならず 湯の香立ちくる 筑紫路の 雨の太宰府に 詣づるもよし」
海ではないのに、まるで湯けむりのように霧が立ちのぼる筑紫(九州北部)の道――雨にけぶる太宰府にお参りするのも、また風情があってよいものだ。
太宰府の湿潤な空気、静けさ、そして歴史の深みまで感じられる一首である。
与謝野鉄幹
1873年(明治6)~ 1935年(昭和10)62才

友をえらばば書を讀んで
六分の俠氣四分の熱(16番まである)
太宰府が文豪を惹きつけた理由
① 菅原道真という日本文化の象徴的存在
② 梅・水城跡・都府楼跡(大宰府政庁跡)など、歴史ロマンに満ちた場所

水城跡
新羅の侵攻に備えた九州最大の防衛施設
都府楼跡(大宰府政庁跡)
奈良、平安時代に九州全域を統治した地方最大の役所跡
都府楼とは、大宰府政庁の中国風の呼び方で「都督府(ととくふ)」の楼閣(高い建物)を意味する。

③ 熊本・佐賀・福岡に赴任していた作家が多かった(八雲・漱石など)
④ 静かで風情ある土地柄が創作の刺激になった
今回は学生さんに文学という観点で太宰府の新しい魅力をガイドしてもらい、お陰様で思いもつかなかったブログができました。
学生生活の中ですばらしい思い出を作られたことだと思います。卒業されたらお友だちと、結婚されたらご家族と太宰府を再度訪れ、調べたことを懐かしく説明されることではないでしょうか。
「太宰府が文豪を惹きつけた理由」に菅原道真公、太宰府天満宮、梅、水城跡、都府楼跡などがあるということで改めて太宰府の魅力を見直した次第です。
学生のみなさん寒い中のご案内ありがとうございました。
▶fukuda0917@yahoo.ne.jp
塾長より
いつも記事をお読みいただきありがとうございます。
もしよろしければ記事の一番下にある「コメントを残す」より
コメントを書いていただけますと、記事を書く励みになります。
これからも太宰府の魅力をお伝えしていきますので
応援よろしくお願いします。

文学を通じての太宰府、私には新しい発見です、塾長は学生の文学現地案内に参加され、文人の経歴、俳句、和歌の大意まで解説、中身の濃いブログになっています。太宰府観光に大いに活用出来そうです、もうこれは表彰ものです、有難う御座いました。
市川大夫さんコメントありがとうございます。
和歌や俳句の解説はいろいろと情報を集めてまとめたものなんです。
太宰府に文学を加えることにより更に厚みのある観光資源になると思います。
毎回毎回研究されすごいと思います。
れい子さんコメントありがとうございます。疑問に思ったところを調べていたらこうなりました。
昨年、観世音寺の梵鐘について調べたとき、福岡藩の儒者・貝原益軒が中心となって作った「筑前国続風土記」(元禄元・1688年編さん拝命、1709年完成)に下記の記述がありました。
「此外古来伝りし此寺の宝物什器等、当寺頽破の後、所々に散失せり。今も此寺にありし物なりとて、ふるき仏経古器なと、持伝へたるも有と云。当寺の扁額は、小野道風筆なり。草字に観世音寺とかけり。篤信諸国を歴観し、多く寺社の額を見侍へりしに、かくうるはしき文字はいまた見す。おしむへし其字所々漫滅せる事を。観世音寺頽破の後は、天満宮に納め置しを、近年観音堂造営せしより、此寺に返せり。又此寺の鐘楼に有し鐘、近世安楽寺の鐘となり、今に彼所にありて、此寺にはなし。」
此寺=観世音寺 扁額=「観世音寺」の寺号額 篤信=貝原益軒 観音堂=講堂
観世音寺の講堂が江戸時代の元禄元年(1688年)に再建された際に掲げられた扁額は、最近まで、小野道風の書によるものと思っていました。しかし、小野道風(894年~ 967年)は平安時の書家であることから、作成から700年以上が経過した扁額を利用することに疑問が生じました。そこで、調べてみたら、小野道風筆の扁額が観世音寺の講堂に掲げられたという記録や事実は確認されていないとのことです。
そうなると、夏目漱石は、小野道風筆の扁額をどのような状態で見たのでしょうか。「古りけりな 道風の額 秋の風」と詠んでいますから、実際に建物の外に掲げられている扁額を見ているようです。講堂の再建時に掲げられた扁額は作成から200年以上が経過して古くなっています。推測ですが、夏目漱石は、これを小野道風筆の扁額と思ったのかもしれません。
やまねこさんお久しぶりですね。お元気でしたか。いつもながらのすばらしいコメントありがとうございます。
太宰府文化ふれあい館の説明には以下の様に書いていました。
「道風の額は、かつて観世音寺の南大門に存在した鳥居に掲げられていた額のことです。平安時代の能書家として有名な小野道風筆と伝わる寺号額で、現在実物は観世音寺宝蔵で展示されています。講堂には、江戸時代の儒学者・亀井南冥がこの額を模写したものが掲げられています」。さすがやまねこさんの読み通りですね。
塾長は
天満宮近くに住んでおられて、いいなぁ〜〜
太宰府は歴史だけでなく、文豪たちがいろんなこと感じながら散策したんだ、と思うと…ワクワク✨️✨️
梅の花が咲いたらまた歩き回りたいな。
momoさんコメントありがとうございます。今回は学生さんの新しい観点での文豪たちの文学散策、思いもつかなかった太宰府の魅力が発見できとても感謝しています。天満宮近くに住んでいたおかげです。明けたら飛梅の便りも聞けるようになると開花が待ち遠しくなります。そのころはまたおいでください。お待ちしています。