こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

若松を訪れたのは最初は中村哲医師が何故アフガニスタンに命を懸けたのかを探しにルーツの若松を訪れ(下記のリンクのブログ参照))、今回は人気作家だった火野葦平が何故53才の若さで自殺したのかを調べるためでした。

火野葦平の旧居(河伯洞)

河伯洞(かはくどう)とは葦平がこよなく愛した河童が住む家という意味

 

日本庭園

火野葦平旧居「河伯洞」 : レトロな建物を訪ねて

 

居間

 

葦平は河童を愛していました。

 

書斎

この部屋で執筆活動を続けこの部屋で自殺

 

書棚

 

火野葦平の経歴

1907年1月25日~1960年1月24日(享年53才)

 

1937年出征前に書いた「糞尿譚」発行部数1万部(1938年第6回芥川賞を戦地で受賞)

1937年出征

戦地で書いた三部作

1938年「麦と兵隊」

1938年「土と兵隊」

1939年「花と兵隊」

三部作は300万部を超える大ベストセラーとなり一躍国民的作家となる。

1940~1960年までこの旧宅で執筆活動を続ける。

父玉井金五郎が息子葦平のためにとその印税によって建てたが、葦平は戦友の苦労への思いからこのことを負担に感じていた。

1953年「花と竜」

 

1960年絶筆となった「革命前後」

1960年自殺

自殺の原因

自殺の原因は本人のみぞ知るわけですけど周りの人の話しを総合すると

①眼底出血や高血圧の発作でいつ倒れるかもしれないという不安感。

また自宅で飼っていたライオンがクル病にかかり、歩くことさえままならないほど弱っていくのを目の当たりにする中、ますます憂鬱になっていったという。

進士 素丸 on X: "一方、火野葦平はライオンを飼った。 https ...

②親分肌の葦平のまわりには、多くの人が集まって来て、彼らにカネを貸したり保証人になったりしていたこと、また子供が7人いたことなどによる経済的問題。

③つ目は、才能の限界や文学的な行きづまり。

経済的逼迫のため、作品が粗製乱造になっていたこと。その時期は北九州出身の作家松本清張(1910〜1992)が台頭し始めてきた時期でもありました。

④そして最後が兵隊三部作は戦争を賛美したわけではないのに公職追放を受け、国民的作家から戦犯としての激しい非難の嵐で、火野に対する国民の評価は一変。戦争責任への負い目が戦後以来ずっと心に鬱屈し続けていたこと。

などにより自殺したのではないかと思われています。

他にも不倫関係の女性がいたこと。

自らの戦争責任を総括した作品「革命前後」(1960年)を完成した後、何を書くかという空虚感に襲われていたのも原因ではないかと思われています。

なお遺書には

「死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるしください、さようなら」と書かれていたといいます。睡眠薬自殺でした。

 

中村哲医師が何故アフガニスタンに命を懸けたのか

2024年11月16日に「アフガニスタンからの報告」があるので行きます。

 

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塾長より

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