こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

白村江の戦いは663年日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との戦いで日本が大敗を喫します。

なお、「日本」という国号は701年大宝律令で制定・公布されます。

①白村江の戦いの前の中国と朝鮮半島の情勢

当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が覇権を争っていました。

三国時代

 

百済高句麗(こうくり)は同盟を結び新羅と対立。

は朝鮮半島の支配を目指し新羅を従えて百済に侵攻。高句麗への侵攻に向けて、障害を除去する狙いがあったのです。

中国大陸では、581年に隋が、618年には唐が建国し、中国大陸の統一を果たしていました。

645年、唐は朝鮮半島の北の高句麗を攻めます。当時、高句麗と百済から攻められていた新羅は唐と連合するようになり唐への忠誠を示しました。

654年、百済は大飢饉に襲われ、国力は弱まり、食糧問題も、国政も、治安も悪化。そこで唐は新羅を従え侵攻計画を進め、660年に百済を滅ぼしました。

その後百済は復興を目指し、日本(倭国)に援軍を求めてきました。

②斉明天皇の決断

百済からの救援要請を受けた当時の斉明天皇は、難しい決断を迫られました。

百済の要請に応えることは、唐・新羅を敵に回すことになります。

特に唐は当時、東アジア一帯に強い影響力を持つ大国。交戦して敗れた場合には百済の再興が不可能となることはもちろん、日本(倭国)自体も唐の侵攻にさらされ、国家存亡の危機に立たされてしまうおそれもあったのです。

一方で、もし唐・新羅連合軍を下すことができれば、再興した百済を配下にすることが可能になり朝鮮半島において支配区域を拡大する可能性があることを意味していました。

揺れ動いた斉明天皇が下した結論は出兵。

この決断の裏には、658年に、北方を拠点としていた蝦夷(えみし)(北陸・関東北部から東北地方にかけて朝廷に服従していなかった人々)と粛慎(みしはせ)(樺太・北海道北部に渡ってきたツングース系部族)を平定したことが大きく関係していると考えられます。

②白村江の戦い

663年百済復興を目指す日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との戦い。

唐水軍と交戦

百済からの救援要請を受け、斉明天皇は都を立ち、自ら兵を率いて難波津(なにわづ)から海路で九州へ。

しかし、661年斉明天皇は、出征を目前にして、九州・「朝倉宮」(あさくらのみや)(別名橘広庭宮)で息を引き取ります。斉明天皇の死を受け、息子・中大兄皇子は日本(倭国)軍の大将に就任。

「朝倉宮」(あさくらのみや)

(別名橘広庭宮 たちばなのひろのにわのみや)

日本(倭国)軍の1000隻の船と約2万7,000人の兵士は朝鮮半島に向かいました。有史以来、わが国初となる外征における戦いです。

663年日本(倭国)軍は白村江で大敗。

大和朝廷は一大防衛施設を築く

新羅の侵攻予想図

太宰府から瀬戸内海を通り都の飛鳥に侵攻

 

一大防衛施設とは

唐・新羅の侵攻に備え対馬から太宰府、瀬戸内海の沿岸、都を飛鳥から近江大津宮へ移し一大防衛施設を築く

 

●664年ころ(詳細不明)博多湾の近くにあった那津官家(なのつのみやけ、大宰府政庁の前身)を太宰府に移し大宰府政庁を築く。(大宰府政庁とは、外交や軍事を担当する朝廷の出先機関)

那津官家

大宰府政庁

 

●664年大宰府政庁を守るために水城を築く

水城

 

●665年大野城(太宰府市)基肄城(きいじょう)(佐賀県鳥栖)を築く 

大野城

基肄城

 

●664~667年(築年不詳)ころ兵站基地として鞠智城(きくちじょう、熊本菊池)築く

鞠智城

 

●665年長門城(山口)を築く

 

●667年屋嶋城(香川)、岡山に鬼ノ城(築年不詳)を築く

 

●667年朝鮮半島への先端基地として金田城(対馬)を築く

金田城

 

●667年都を飛鳥より内陸の近江大津宮に移す

斉明天皇が崩御したあと、中大兄皇子は、都を飛鳥から近江・大津宮に遷都後、天智天皇として即位。

ここに対馬から太宰府、大津宮への一大防衛施設を完成。時の天皇は天智天皇。
なお、対馬から太宰府、大津宮までの通信手段は狼煙(のろし)でした。

(注)古代の役所や遺跡は「大宰府」、地名や天満宮は「太宰府」と使い分けをしています。

 

近江大津宮に遷都した主な理由

大津宮は都の四方を琵琶湖と山に囲まれた天然の要塞です。加えて、琵琶湖を利用した水上交通も発達。物資などの運搬についても環境が整備されていました。堅牢な防御態勢と、水上を中心とした整備された交通網。国の政治の中心地となる素地を有していたと言えるのです。

結果的には、唐と新羅が決別したため、日本(倭国)が侵攻を受けることはありませんでした。

白村江の戦いで敗れたわが国にとって、最大の脅威であった唐と新羅による侵攻が実現することはありませんでした。

白村江の戦い後の668年、唐・新羅連合軍が高句麗を滅ぼしたことをきっかけに、新羅による朝鮮半島全土の支配の野望が表面化します。これをきっかけに、唐と新羅の関係が微妙に変化。それまで宗主国に対して完全に服従していた新羅は、唐との対立を辞さない姿勢を示すようになったのです。これを受けた唐は、新羅との戦争を選択。倭は、重大な局面を免れることができたと言えます。

唐にとっても、日本(倭国)に対しては侵攻ではなく、融和政策をとる必要がありました。唐が新羅と交戦状態になった場合、朝鮮半島での戦いに集中するという意味において、かって敵であった日本(倭国)の存在を無視することはできなかったのです。そこで、唐は数度に亘って倭に使者を派遣します。その際、白村江の戦いにおいて捕虜として確保した日本(倭国)兵士の返還が行われるなど、両国は「和解」への道を進んだのでした。

 

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