こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

過去、福岡城の筑前六端城のうち若松城、黒崎城、右左良城に行き、今回は益富城(一夜城)と松尾城(小石原城)に行ったので残るは高取城だけになりました。

福岡城の筑前六端城

1600年、関ヶ原合戦の功により52万石の大名として筑前国に入部した黒田長政は、翌年から福岡城の築城にとりかかりました。また同時に国境の守りを固めるため1610年までの間に、若松城をはじめ黒崎城、鷹取城、益富城一夜城)、松尾城(小石原城)、右左良(まてら)(麻氐良まてら)城の筑前六端城を築き、黒田六端城とも呼ばれました。

西方浄土筑紫嶋: 黒田藩の重臣と六端城

六城はすべて福岡城より東側に築かれており、そのうち右左良(まてら)城(麻底良城)をのぞく五城は豊前国との国境に築かれています。これは黒田長政が中津から福岡へ国替えの際、作法を無視して徴収した年貢をすべて福岡へ持ち去ったことに後任として豊前中津へ入封した細川忠興が激怒して両者の関係が悪化したため、長政は豊前との国境を防衛する必要に迫られたと考えられています。当時の作法では年貢は前地に置いていかなければならなかったのです。六城には黒田二十四騎が城主をつとめています。(攻城団より)

 

 城名   所在地    城主

1.若松城(福岡県北九州市)三宅若狭守家義

2.黒崎城(福岡県北九州市)井上周防守之房

3.鷹取城(福岡県直方市)母里太兵衛友信

4.益富城(一夜城)(福岡県嘉麻市)後藤又兵衛基次

5.松尾城(小石原城)(福岡県朝倉郡)中間六郎右衛門統胤

6.右左良(まてら)(麻氐良まてら)城(福岡県朝倉市)栗山備後守利安

 

益富城(別名 一夜城)

所在地:福岡県嘉麻市

城主:後藤又兵衛基次

益富城は永享年代(1429年~1441年)に大内盛見が築城したといわれています。日田街道と長崎街道を結ぶ交通の要衝であったことから、大内氏・大友氏などによって激しい争奪戦が繰り広げられました。一時は毛利元就が領有し、城番として杉忠重を置いています。また、戦国時代末期には、古処山城を本拠とする秋月氏の支城のひとつでした。その後、「関ケ原の戦い」の功績により筑前国を与えられた黒田氏の時代には「筑前六端城(ちくぜんろくはじろ)」のひとつとして、益富城は当時対立していた細川氏との国境にあることから重視され、後藤又兵衛基次が城主をつとめています。のちに基次が出奔したあとには母里太兵衛友信が城主となりましたが、1615年(元和元年)に発布された一国一城令により廃城となりました。(攻城団より)

【一夜で出現した秀吉の城】益富の一夜城とは?

こちらをご覧ください。↓

一夜城まつり

一夜城まつりは毎年秋に2週間にわたり開催、一夜城が益富城跡に連日ライトアップされ、ステージでは各種イベントが開催され、最終日には打ち上げ花火で盛り上がり多くの来場者が訪れます。

一夜城はパネルで作成されており、祭りが終わると取り壊され毎年造り代えられます。

この一夜城まつりは約30年前に昭和22(1947)生まれの中学校の同窓会で「何か街おこしをしよう」という話からアイディアが生まれそれ以降毎年続けられています。

 

松尾城(別名小石原城)

所在地:福岡県朝倉郡東峰村大字小石原

城主:中間六郎右衛門統胤

 

戦国時代、松尾城は秋月氏の家臣と考えられる宝珠山山城守の居城であったと伝えられています。

天正10年(1582)には大友宗麟が小石原に攻め入って松尾城を打ち崩したとの記録があります。慶長5年(1600)に黒田長政が関ヶ原の戦いの功により、豊前中津から筑前に入国したあとは黒田家の支配下に入ります。慶長6年(1601)には、領内に6つの端城を設け、重臣が配されるが、松尾城には土地鑑があった黒田(中間)六郎右衛門統胤が城主となります。その後、松尾城は元和元年(1615)幕府の一国一城令により破却されます。(ニッポン城めぐりより)

 

城からの眺め

 

 

 

 

福岡城の筑前六端城めぐりで残りは高取城(直方市)を残すだけになりました。高取城は黒田節で有名な母里太兵衛が城主で、また高取山の麓は福岡藩御用窯の高取焼の産地でもあり行くのが楽しみです。

なお、高取焼は明治の廃藩置県により、福岡藩御用窯も廃窯となり、その後昭和32年(1957)に高取八蔵の子孫に当る十一代静山氏が小石原鼓で窯を再興、現在は十三代に至っています。




塾長より

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