こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

ペシャワール会中村哲医師の歩み。著書「希望の一滴」をまとめてみました。4回シリーズの1回目です。

「希望の一滴」著中村哲

ペシャワール会とは

ペシャワール会は1983年9月、中村哲医師のパキスタンでの医療活動を支援する目的で結成された国際NGO(NPO)団体です。

PMSとは

PMS(略: Peace (Japan) Medical Services)は、平和医療団・日本 総院長の中村哲率いる現地事業体です。

PMSは医療団体ですが、病気の背景には慢性の食糧不足と栄養失調があることから、砂漠化した農地の回復が急務だと判断し、今なお進行する大干ばつのなか灌漑水利事業に重きを置いて、現在はダラエヌール診療所、農業事業、灌漑事業、訓練所でのPMS方式取水技術の普及活動に職員一同尽力中です。

 

中村哲医師が向かった場所

アフガニスタンとパキスタン 

中村哲の歩み

1946(昭和21年)誕生

9.15福岡市で生まれる。2年後父母の故郷である若松市へ。伯父は芥川賞作家火野葦平。祖父は「花と龍」(著火野葦平)のモデルとして知られる、北九州で石炭荷役業を営んだ玉井金五郎

若松で親族と写真に収まる中村哲(白い帽子の少年)。その後ろに立っているのが火野葦平。左端が祖母の玉井マン(火野葦平資料の会)

1952(昭和27年)福岡県古賀町へ。福岡高校へ進学

1973(昭和48年)九州大医学部を卒業

1978(昭和53年)ヒンズークス山脈と出会う

福岡の山岳会「福岡登高会」のティリチミール遠征隊の同行医師として国境にまたがるヒンズークス山脈に分け入る。「道すがら、失明したトラコーマの老婆や一目でハンセン病とわかる村民に『待ってください』と追いすがられるも見捨てざるをえなかった」

1984(昭和59年)パキスタン北西部に赴任

ペシャワールのミッション病院に赴任。医療器具はほとんどなく患者も自分で背負って搬送。

1986(昭和61年)難民キャンプでの医療活動開始

パキスタンにもアフガン国籍の患者が多く訪れた

 

1991(平成3年)アフガニスタン国内に最初の診療所開設

診療所開設に向けた調査のため標高2500mの峠を越えて雪の中アフガンに入る

 

1998(平成10年)ペシャワールに基地病院を設立

2000(平成12年)干ばつを受け井戸を掘る

アフガンで大干ばつが発生。農地の砂漠化が進み、住民が次々と村を捨てた。飢えと渇きの犠牲者の多くは子どもたち。「もはや病の治療どころではない」

灌漑事業を決意し、井戸掘りを始める。2006年までに井戸は1600カ所となった。「診療を待つ間に、体が冷たくなっていく子供を母親が抱きしめている」

ダラエヌール地域で掘った灌漑用大井戸に降りていく筆者

 

2001(平成13年)空爆下での食料配給

2001.9.11の米中枢同時テロの容疑者をかくまったとして、米軍などがアフガニスタンを攻撃。日本の自衛隊は後方支援。必要なのは飢餓対策だと訴える。「自衛隊派遣は有害無益」

ライフルを持った護衛が周囲を警戒する。

 

2003(平成15年)用水路建設に着手

井戸掘りを進める中で直面したのが、地下水の枯渇。水不足で小麦を作ることができない住民たちは現金収入を得るため、乾燥に強く、ヘロインやアヘンの原料となるケシの栽培を広げていた。地下水に頼る灌漑の限界を知り、用水路の建設を始める。アジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞を受賞。「百の診療所より一本の用水路を」

 

 

モデルは筑後川の山田堰

石畳堰1

 

山田堰採用の理由は

①江戸時代に築造した堰が現在も稼働している

②総工費が安い

③地元自身で維持ができ、維持費が安い

日本から多くの個人による30億円の寄付が寄せられる。

中村哲は全国の堰を隈なく訪ね歩き、行き着いた先が筑後川の山田堰でその後何度も調査に訪れている。

山田堰上流の長野堰・大石堰については

「水神」(上、下巻)著帚木蓬生や福岡地区社会科研究協議会編「4年、よいこの社会科=5人の庄屋と村人たち=」が参考になります。

(「大石・長野水道ふきんの地図」は4回シリーズの3回目参照)

 

 

2003年 用水路建設前のガンベリ砂漠は「死の谷」と呼ばれていた。

                      ↓

用水路着手16年後の2019年用水路が通り、木々が茂り農場も生まれた。

 

2009年真っ先に植えた日本のスイカが大豊作

 

2010(平成22年)マルワリード用水路全長25km完成

荒れ果てた農地に加え、元々砂漠だった場所までもが緑に生まれ変わった。

 

水は子どもたちが健やかに育つ基盤である。

 

2019(令和元年)アフガニスタン名誉市民に

用水路で潤った土地は約16,500ヘクタール(福岡市の約半分の広さ)全長35Kmに及び救った農民は65万人

用水路着手16年後の2019年用水路が通り、木々が茂り農場も生まれた。

 

 

2019.12.4 凶弾に倒れる(享年73才)

作業現場へ車で向かう途中に銃撃され中村哲を含め6人が死亡。殺害目的は不明。

止めを刺されたようなので偶然ではなく狙われて殺害された可能性。

2020年 用水路着手17年後 PMSの事業で緑色の灌漑地域が大きく増えている。

 

カンベリ砂漠の荒れ地は人々の汗によって小麦畑に姿を変え大豊作に

 

 

中村哲がここまでやり抜いた要因は大きく三つあると思います。

①本物の医師としての強い使命感

②身近に「川筋かたぎ」の伯父の火野葦平や祖父の玉井金五郎がいた

北九州の遠賀川は筑豊地域の多くの支流が玄界灘 に注いでいて水運 が早くから開け、川筋 の 筑豊炭田開発につれ、石炭輸送の大動脈となった。「川筋かたぎ」とは, 炭鉱 と川船による石炭輸送に働く人々を さし、金づかいと気は荒いが、男気がある。

そういう男気のある伯父の作家火野葦平や祖父の「花と龍」(著火野葦平)のモデルとして知られる、北九州で石炭荷役業を営んだ玉井金五郎を身近にもち川筋かたぎの血が流れていた。

③福岡に生まれ筑後川の山田堰を知っていたからではないかと思われる。

 

4回シリーズの2回目はこちら

 

中村哲の目標

●普通の人が普通の生活ができるように!

住民の声

●食い詰めて兵士となったアフガン男性「もう銃を持たなくていい」。

●砂漠化した大地がよみがえり家族があたたかな食卓を囲む人間の暮らしがもどった。

 

晩年農業に生きた菅原文太の生き方は農業の灌漑用水に命を懸けたペシャワール会の中村哲に通じるところがあるようです。

お問い合わせ・ガイドの依頼はコチラから
fukuda0917@yahoo.ne.jp

塾長より

いつも記事をお読みいただきありがとうございます。
もしよろしければ記事の一番下にある「コメントを残す」より
コメントを書いていただけますと、記事を書く励みになります。

これからも太宰府の魅力をお伝えしていきますので
応援よろしくお願いします。