こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。
宝満山の麓近くにあるけどなかなか見つからずやっとのことで見つけました。
【有智山城】太宰府宝満山 大宰少弐の居城
有智山城は少弐氏によって宝満山中腹に築かれた城です。
少弐氏とは
1226年少弐氏は武蔵国の初代の武藤資頼が、源頼朝より大宰少弐職に任じられて大宰府の長官となりました。以降代々武藤氏は大宰少弐職を世襲して少弐氏と名乗り、筑前守護を兼任しています。
有智山城
1336年南朝の後醍醐天皇と敵対し敗れた北朝方の足利尊氏を赤間関(下関)まで出迎えるため、6代少弐頼尚が城を離れると、その留守中に南朝方の菊池氏や阿蘇氏に攻められます。頼尚の父である少弐貞経はこの城に籠城して抵抗しましたが、敗れて自刃。その後、少弐頼尚は足利尊氏とともに菊池、阿蘇軍に多々良浜の戦いで勝利して、有智山城を取り戻します。
現在城址には土塁や横堀の遺構をわずかに確認することができます。なお従来この城は少弐氏代々の居城とされてきましたが、近年では戦国末期の宝満山城の出城ではないかという説もあります。
元寇の際は少弐景資は鎮西(九州)の御家人の総司令官となり、元軍と最前線で戦っています。弘安5年(1282年)には鎌倉幕府は、元寇の後に少弐氏へ恩賞として、岩戸城(別名安徳城 福岡県那珂川市)、大宰府城(浦ノ城)の築城を行いました。浦ノ城は太宰府天満宮西へ500mの小高い丘にあり、少弐氏の居館となりました。有智山城は、戦の際の詰城だったと思われます。
1367年九州探題今川了俊に従っていた大内義弘が有智山城を攻めて少弐頼澄は敗れ大宰府を失いました。
その後、何度か少弐氏は筑前を回復しましたが、西国最強の大内氏に敗れて肥前に逃れたために廃城になったと思われます。
有智山城 石垣跡
有智山城 二重空濠跡
浦の城跡はこちら↓
大宰少弐武藤資頼と武藤資能はこちら↓
▶fukuda0917@yahoo.ne.jp
塾長より
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福田塾長さん
大寒の真っ只中に、車では行けない山道を踏み分けて、
「有智山城跡」の発見行、その執念に恐れ入りました。
外敵から日本を護る前線としての大宰府とその周辺には、
多くの山城が配置されていたことが、あらためて分かりました。
Storchさんコメントありがとうございます。元軍への備えだったのかはたまた大内への備えだったのか想像するところに歴史や史跡の面白さがあるのかもしれませんね。