こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

先日太宰府四王寺山の四天王跡を訪ねてきました。

太宰府四王寺山に四王寺(四王院)創建

太宰府の四王寺山は古くは大城山とも大野山ともいわれていました。

白村江の戦いをキッカケに天智天皇の665年に大野城が築かれたことで、日本の防衛という重要な役割を担いました。

それから110年後、奈良時代の774年、大城山に四王寺(四王院)が創建されます。当時外交関係が緊張していた朝鮮半島の新羅の日本への侵攻の動きに対し、尾根伝いに四天王像(持国天、増長天、広目天、毘沙門天)を安置し、国を守る祈祷をすることが目的でした。

四王寺(四王院)が創建されたあと大城山(大野山とも)は四王寺山と呼ばれるようになったと云われています。

 

宝満山から四王寺山を望む

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大宰府政庁跡から四王寺山を望む

 

四天王の配置図

四天王とは仏教の帝釈天に仕える四人の守護神でそれぞれの方角を守ります。

東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天(別称毘沙門天)

毘沙門天(北方の守り)

毘沙門堂の西側は大野城跡で最も標高が高い大野城山頂(410m)にあたり、ここでは人の頭ほどの大きさの石が多く見られますが、見張り台や烽火台などの施設があった跡かもしれません。

 

毘沙門堂の鳥居

大城山(大野山とも)の山頂にあります。

 

毘沙門堂

 

大城山山頂

 

大野城址の石碑

大城山(大野山とも)の山頂にあります。

 

四王寺跡の石碑

上記の大野城址と書いてある石碑の側面

 

広目天(西方の守り)

 

 

けいさしの井

奈良時代創建の四王寺に関連するものと考えられています。

増長天(南方の守り)

増長天という地名は奈良時代に城の西端部の鼓峯(410m)を中心に造られた四王寺に由来するものと思われます。

 

大野城の南東部に位置し4棟の高床建物(倉庫)跡が一列に並んで残っています。

 

鏡ケ池

大野城の井戸跡ではないかと考えられています。

持国天(東方の守り)

 

四王寺山は標高が一番高い410mの大城山(おおきやま 大野山とも)を中心に岩屋山(281m)、大原山(355m)、水瓶山(212m)と呼ばれる4つの山から構成されており、それらを別個の山とみなして一帯の山地の総称として四王寺山脈・四王寺山地と呼ばれることもあります。

 

今まで大野山、大城山、四王寺山などいろいろな呼称がありよくわかりませんでしたけどこれでやっとわかりました。

 

 

今年はこの記事をもちまして最終回とさせていただきます。

本年もこの徒然日記をご覧いただき、また各地からたくさんの写真や情報の提供、コメントをいただき本当にありがとうございました!

またこの活動を通していろんな方々との出会いもありました。

来年はさらに、みなさんに喜んでいただける魅力ある記事をそしてガイド活動をしていきたいと思いますのでどうぞよろしくお願いいたします!

本当にありがとうございました。

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