こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。
太宰府水城跡近くの「衣掛の三本桜」に行ってきました。
衣掛の三本桜
「衣掛天満宮」の上に微かに見えます。
行き道は水城館手前のこの「水城跡第一広場」の看板の前の細い道を入る
30m程行き右へ登ります。
見えてきました。
全体像
右から衣の桜、松の桜、石の桜
衣の桜
松の桜
石の桜
供養塔
衣掛天満宮 ↓
2021.3.15丁度満開でした。
衣の桜、松の桜、石の桜、三本の桜の名前の由来が気になります。
また三本の桜の間に供養塔が建っていました。
誰の供養塔なのか、桜の名前もその方に因んだ名前ではではないかと想像できます。
どなたかご存じであれば教えてください。
以下太宰府市文化財課にお聞きしました。
【供養塔の桜】は、近隣の方々よると、この土地に元来あったものではなく、土地の所有者が植えたものらしいです。大きさや雰囲気的に戦後に植えられたものでしょうね。この名前を誰が付けたかはわかりません。
【供養塔】について。
昭和33年ごろ、畑の拡張工事のとき古墳が出土し、鏡山猛・長沼賢海両氏が発掘にあたり石棺・銅矛・甕棺・土壙墓などを確認した。この際発見された人骨を供養するために土地の所有者が供養塔を建てた。当時の所有者はお亡くなりになっていますけど、以前は所有者の方が、盆(8/13~16日)には献灯し、8/19に煙火をあげて供養していたようです。
この丘陵は弥生時代中期ごろの墓地が造られていたようです。その人たちの集落は丘陵下の国分地域にあったようです。
塾長より
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確かにこの場所は古墳があっても不思議ではないような小高い場所ですね。衣掛天満宮が鎮座する場所は西暦901年に菅原道真公が大宰府に流されて来る途中に今の下大利団地の横の御笠川で舟を下りて官道を歩き道沿いにあった「松」に「衣」を掛けて「石」の上で休息されたとの逸話があります。それで衣掛天満宮が造られ博多からの太宰府参りの途中に人々が参拝されていました。衣掛天満宮の真上に三本桜がありますので「松」「衣」「石」の名前が付けられた?でしょうか。
うっちゃんコメントありがとうございます。3本桜の名前、衣、松、石きっとうっちゃんのおっしゃる通りだで見事な推理だと思います。
素晴らしい解説とご案内ありがとうございました。
衣掛天満宮の扁額の材料は、
道真公が衣を掛けた松が枯れたので
大事にお祀りするために、拝殿の扁額にしたと言う話を勉強した記憶があります。腰掛けた石は、今もあるかなあるかな、向かい側のクリーニング店に大事に祀られていると、太宰府検定テキストに書かれています。
色々土地の方々の昔からの言い伝えは大切に次代に繋いで行って下さいませ。
福岡市の啓子
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使用、
うっちゃんには色々ご指導頂いています。有り難いです。
ブログありがとうございました!
杉本さん、投稿ありがとうございます。道真公が御笠川で舟を降りたとされる場所は今は老松神社⛩になり東に天拝山が望め歴史がずーっと繋がっていますね。
啓子さんもうっちゃんの生徒さんみたいですね。恩師を囲んで同窓会したいですね。
その節はよろしくお願いします。
うっちゃん!
コメントありがとうございます。
下大利団地に近い場所にありますね!
境内に遥拝所があったような気がしますが!何処を見るの?
太宰府天満宮?
宝満山?
コロナウイルスで憂鬱になりかけていました折に、まだまだ太宰府の勉強をしたいなぁ、と思える様に、なりかけています。ありがとうございましたm(_ _)m
啓子さんコメントありがとうございます。
太宰府検定にはそんな難しい問題が出るのですか。それからいけばわたしは10級です。
これからもブログ時々見てください。よろしくお願いします。