こんにちは!太宰府魅力発見塾塾長の福田です。

遠賀団印

現在の水城小学校校門

 

校門内左横

 

遠賀団印出土地

明治三十二年二月

 

 

遠賀団印出土地

説明板より

「今から1300年前の軍隊(そのころは軍団といいました)の印鑑です。

軍団の兵士の数は数百人から千人くらいで、村の21才から60才までの男たちの内、およそ一家に一人の割で兵士に出なければならなかったといわれています。

この印鑑は明治32年に現在の水城小学校(当時は御笠北小学校)の校内から掘り出されました。そして近くから発見されされた御笠団印(当ブログ後段で説明)とともに、日本ではまだこの2つしか見つかっていないとても大事な軍団の印です」

 

太宰府の文化財あれこれ

説明板より

「太宰府は古い歴史をもつまちです。

1300年前に作られた水城・大野城、九州全体を治める役所であった大宰府、奈良時代に建てられた観世音寺・戒壇院・筑前国分寺、そして平安時代から始まる学問の神、菅原道真をまつる太宰府天満宮など、まちの中にはたくさんの遺跡や文化財があります。

この壁画は、そのような歴史や文化財をもとにして描かれました」

御笠団印

太宰府市文化ふれあい館の少し南に下った所に「御笠団印出土地」の説明板があります。

 

 

 

御笠団印出土地

説明板より

「701年の大宝律令に定められた軍団の印判が発掘された所である。軍団は全国におかれ、普通一軍団は兵士千人で構成され、その兵士は成人男子から三人に一人の割で徴発された。平安時代初め筑前国には4軍団があり、この印のある御笠軍団はそのうちの一つだったと思われる。近くの水城小学校からは遠賀軍団印が出土している」

大宝律令とは701年文武(もんむ)天皇の時代に唐(中国)の法律を参考に制定された法律。

「律」は刑法、「令」は行政法や民法など刑法以外の法律をさす。

大宝律令が制定されたことで、天皇を頂点とした法律による支配体制が整い、律令国家が本格的にスタート。

昭和二年四月八日発掘

 

所属先

二つの軍団印は現在東京国立博物館に所属され国の重要文化財に指定。

兵士の任務

有事の際の征討、国府・兵庫の守衛、国内要地・関などの守衛、倉庫・山城・堀の修理、天皇行幸時の護衛、外国使節の送迎、犯罪人の護送など幅広い内容に及んでいる。

国内要地の守衛のなかには大野城・基肄城(きいじょう)などの古代山城も含まれる。

軍団印の大きさ

材質:青銅製

大きさ:印面4.2cm、総高5.2cm

軍団印の用途

軍団が国府などに発給する文書や帳簿などに捺されたと考えられる。

遠賀団印が大宰府から出土したのは軍団印が天長3年(826年)の軍団の廃止に伴って遠賀郡から筑前国府に回収されたと考えられる。

(参考文献 西日本文化協会出版「西日本文化」)

 

筑前国には4軍団があったそうで今後この一帯から残り二つの軍団印が発見されるかもしれませんね。

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塾長より

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